ピルエット、アラベスク、シソンヌ、プリエ。ポーンとピアノの音が止み、まぁいいでしょう、と講師は手をパンと叩いた。駆け寄ってくる生徒達に来週の課題を伝え、授業を終わることを伝える。ゆっくりと帰りの準備を始める生徒を眺めていた講師は、そういえば、と声に出して呟けば、生徒達の動作は一斉にピタリと止まった。

「ソフィア、シオリ、残りなさい」

名前を呼ばれたソフィアと詩織は顔を見合わせてニッコリと笑う。肩を落としながら寮に帰る準備をテキパキと始めるほかの生徒達を他所に、詩織とソフィアはその授業で最も良いパフォーマンスを行った生徒のみが受けることの出来る"補習"を受けに、講師のそばに駆け寄る。自分のいる学年とは一つ上の学年の、少し難易度が高い授業を受けることが出来る"補習"は毎週授業の出来によって受けられる人が変わってくるが、詩織は先週から二週連続で受けている。これが終わったら一旦寮に行って、同じクラスのみんなに今回教わったことを教えるのが、その週の"補講者"の仕事である。この日だけ、詩織はリリアの家ではなく、寮に泊まれることになっているのだ。講師と音楽をくれるピアニストを含め、ソフィアと詩織しかいない四人だけ人だけの教室に、ピアノの音と、トウシューズがリノリウムの床を蹴る音、講師の授業よりは数段も厳しい声が飛ぶ。ピケ、エシャペ、グリッサード、ピルエット、それからアラベスク。止め!パンを手を叩いた講師は、二人に短い休憩をとることを伝えて、外に向かって歩き出した。さっきから外がざわざわと騒がしい事に、講師はイラついていたらしい。外を歩いていた上級生らしき生徒を一人教室に引っ張りこんできた。

「何事ですか、騒々しい」
「すみません、ミス。人が尋ねてきているらしく、少し浮き足立っているだけです」
「そうですか。では外にいる人たちに伝えてきなさい。静かにしてちょうだいと」
「はい」

失礼しました、礼をして教室からその生徒が出たのを見送って、レッスンは再開された。しかし講師の注意はあまり効かなかったらしい。廊下は依然ざわざわと騒がしく、心なしかさっきよりもさらに騒がしくなっている。"補習"はついに中断された。全く誰がこんなに騒がしくさせているのかしらね。眉を顰めた講師は、コンコン、とドアをノックする音にはい、とイラついた声で返事をした。

「あぁミーリャ、邪魔して悪いわね」
「リリアじゃない。どうかしたのかしら」
「えぇ、少し用事がありましてね」

スタジオに入ってきたリリアは講師のと一言二言交わして、詩織がいるのを確認した。ちょっと待っててちょうだい、と声をかけて、廊下に顔を出す。

「ヴィクトル、シオリはここよ」
「ヴィクトル?もしかしてヴィクトル・ニキフォロフ?」
「えぇ」

聞こえてきた名前に、講師は怪訝そうにした。ロシアで注目されているフィギュアスケーターであるヴィクトル・ニキフォロフが、なぜここを、さらに言うと詩織を訪ねに来たのだろうか。自分の教え子を見ても、彼女はキョトンとして首をかしげている。そんな間にもコツンコツンと足音を響かせて、ヴィクトル・ニキフォロフが入って来た。昨シーズンのプログラムのために伸ばしていた銀糸のような髪は結われていて、歩くヴィクトルにあわせてゆらゆらと規則正しく揺れる。部屋に入ってきたヴィクトルは、一直線に詩織に向い、立ち止まった。そして無言で手を差し出した詩織に、やっぱり敵わないなぁ、なんてヴィクトルは笑って、手に持っていたハサミを詩織に渡した。渡されたハサミを受け取った詩織は、ちょきん、とハサミを鳴らす。銀色が光を鈍く反射して、詩織は少し目を細めた。少し二人にさせてあげて。そう言ってリリアが他の人を連れて部屋から出た。静かな部屋に、パタンとドアの閉まる音はよく響いた。

「私、切ったことないから下手くそだよ」
「いいよ、記念だから。あとはちゃんと美容院で整えてもらうさ」

それより。詩織の頬に指をすべらせたヴィクトルは、そのまま流れるように詩織の顎を持ち上げる。ぐん、と近づけた顔は、息がかかりそうなほど近い。

「いいの?」
「なにが?」
「俺の髪を切って」
「何よ今更。切ってくれって頼んできたのヴィーチャじゃない」
「……それも、そうだね」

じゃあ切ってよ。パッと手を離してスタジオに隅に置いてあった椅子を持ってきて座ったヴィクトルに、そうね、と詩織は背後に回った。いつの誕生日に送ったとんぼ玉のヘアゴムをするりと抜けば、ふわりと髪が広がる。さらさらと指通りの良い髪をすいていると、ねぇ、とヴィクトルから声をかけられた。

「うん?」
「約束覚えてる?」

髪を梳いていた手が、一瞬止まった。

「…………うん、覚えてる」
「それでも、切るの?」

ヴィクトルの問いかけに、しつこいよ、と詩織は呆れて頭を軽く叩いた。

「だったらハサミ受け取ってないわよ」
「!!じゃ、」
「……まぁ、アカデミー卒業してからだけどね。今は恋にうつつを抜かしてる暇なんてないわ」
「卒業、ね」
「なによ」
「いや?」
「私がどんな覚悟でロシアに来たのか、知ってるわよね。絶対生き残って、卒業して見せるわ」

Прощай, брат、囁くように呟かれた言葉と共に、ジョキン、と音がして、ヴィクトルは自分の頭が軽くなった事に、詩織にバレないように息を吐いた。枷は外されたものの、詩織の卒業まであと五年。そのうち最初の二年は会えるかすら厳しい。この積もりに積もった愛は、どう発散すべきなのか。もういいわよ、ヴィーチャ。そう声をかけられて、ヴィクトルは立ち上がった。Я люблю тебя, моя принцесса.そう言って自分よりうんと低いところにあるつむじにキスを落とせば、フライングかしらね、とクスクスと笑われた。そうだ、切られたヴィクトルの髪の毛を掴んでいた詩織は、ヴィクトルを見上げる。

「髪の毛、どうする?」
「持ってていいよ、それを眺めていつでも俺のこと思い出して」

そうぱっちりとウィンクすれば、気持ち悪い、と詩織はわかりやすく頬をひきつらせてそう呟いた。髪の毛とか呪いの藁人形的なやつじゃん、ぶつぶつと日本語でそう呟いた詩織は、じゃあ、とヴィクトルを見あげた。

「良い夏を」
「うん、良い夏を」

夏休みは、すぐそこに迫っていた。







「ヴィーチャ!」

呼ばれた名前が、スケートリンクに響く。その直後にプリマたるもの落ち着いて行動すべきですよ、という厳しい声がして、ヴィクトルはクスリと笑った。今行くよ、と言ってリンクサイドに上がれば、そこには少し日焼けをした詩織がいた。久しぶり、笑いかけられてヴィクトルも久しぶりと返した。夏休みはどうだった?と毎年恒例の質問に、待ってましたとばかりに詩織は目を輝かせる。隅にあるベンチに座り、詩織はトートから小さなアルバムを取り出した。向こうの中学に通い、制服であるセーラー服を着たこと、そこで出来た友達と海に行ったこと、幼馴染みと浴衣で夏祭りに行ってお泊まりしたこと、その幼馴染みと遊びに行ったこと。家族で沖縄に行って旅行したこと。アルバムをめくり、そこに貼られている写真を指差しながら一生懸命説明していた詩織は、突然あっ、と声を上げる。突然のことにビックリしたヴィクトルを他所に、あのね、と詩織はゴソゴソとトートを漁った。ねぇ、と声をかけられて、うん?と返事をする。

「夏前に切った髪の毛、ちょっともらったの覚えてる?」
「もちろん」

忘れるはずがない。詩織にとってはただただ頼まれて髪の毛を切っただけだが、あれはヴィクトルにとっては一種の儀式のようなものだった。そのあと美容院で髪を整えられたのだが、あまりの頭の軽さと、洗った後の乾きやすさにびっくりしたのは記憶に新しい。そして詩織に似合ってると何度も言ってもらえたことも。あった、はいこれ。詩織から差し出された紙袋をヴィクトルは受け取った。中を覗けば、小さなビロードのジュエリーボックスが鎮座していた。

「ヴィーチャ髪の毛、全部捨てちゃうの勿体ないなって思って」

開けてみて。にこにこと笑う詩織にうながされて、ヴィクトルは袋から箱を取り出す。蓋を開ければ、そこには淡い水色の石がついたネックレスが、光を浴びてきらりと光っていた。

「髪の毛からダイヤモンドが作れるの、知ってた?」
「え?」
「そのダイヤモンド、ヴィーチャの髪の毛から出来てるんだよ」

凄いでしょ。えっへんと胸を張った詩織だが、無言のままネックレスをじっと見つめるヴィクトルを見てハッとした。

「な、なんかやっぱり重いよね!人の髪の毛勝手に貰ってった上に宝石にしてアクセサリーにしてハイあげるってやっぱり重いよね!ごめんね!いいよいいよ!返して?」
「………ヤダ」
「え?」
「貰う」
「……ほんと?」
「うん、気に入った」

うん、と頷いたヴィクトルの耳が真っ赤になっているのに気付かずに、詩織は気に入ってもらえて良かったぁと胸をなでおろした。







って言うこと。練習を行っていたヴィクトルが見慣れないアクセサリーを付けているのを目ざとく見つけた勇利が聞けば、にこにこと笑うヴィクトルが一から十までこのネックレスについて細やかに説明してくれた。付けたところ見たことないからあの後捨てたかと思ったとサラリと言った詩織に、俺がシオリからの贈り物を捨てるわけないよ!と涙目になったヴィクトルが縋り付くように抱きつこうとするが、鬱陶しい、邪魔、どいてと眉を顰めながらひらりと交わされる。そのシオタイオウはユウリソックリだよね!なんて喚いているヴィクトルに、じゃあなんで今までつけなかったの?と勇利が聞けば、だって落としてなくしそうだったから、なんてヴィクトルはしょんぼりとしていた。

「「女子かよ」」

思わず漏れた日本語が隣からもハモって聞こえて、勇利は詩織をみる。ぱちっと目が合えば、何だかおもしろくなって、二人で腹を抱えて笑った。


Прощай, брат=さよなら、お兄ちゃん
Я люблю тебя, моя принцесса.=愛してるよ、私のお姫様



さよならエウリディーチェ


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