サービス開始当初から稼働しているヴィクトル・ニキフォロフのインスタには、毎年必ず一枚、とある女性の写真が上がることで有名だった。海を見つめる綺麗な後ろ姿や、エルミタージュ美術館で美術品を鑑賞する後ろ姿、ヴィクトルの飼い犬のマッカチンと戯れる姿など合計六枚あるが、どれも顔は映されておらず、毎年写真が投稿される頃になると、果たしてこの女性は一体誰か問題が勃発していた。そして七年目、つい先程更新されたヴィクトルのインスタには、"When my sleeping beauty will got up?"(私の眠り姫はいつ目を覚ますのかな?)という短い文章と共に、シーツに丸まって寝ている女性のの写真が投稿されていた。艶やかに流れる黒い髪が顔の半分ほどを覆っているのだが。横顔が露出されているその画像に、僅かに得られた情報を元に、熱心なヴィクトルファンが持ちうる全ての技術を駆使して探し当てた人物はシオリ・ユウキ。ロシア、モスクワに拠点を置くボリショイ・バレエ団のプリマで、最近はサンクトペテルブルクに拠点を置いているマリインスキー・バレエ団に移籍するかしないかでバレエ界で話題になっているらしい。今まで週刊誌やパパラッチにすっぱ抜かれていないことから、もしやヴィクトル・ニキフォロフの本命か、なんて思われていた矢先、年単位で更新されないことで有名な勝生勇利のインスタが更新された。幼馴染とロシアで再会したよ。という短い一言と共に投稿された写真には、恥ずかしそうに、しかし楽しそうにラビットポーズをした勝生勇利と結城詩織の写真が投稿された。世の中の勝生勇利ファンは勝生勇利にこのポーズを取らせた幼馴染に平伏した。それを見たらしく、負けじとヴィクトル・ニキフォロフは僕も幼馴染だったんだよ、という自慢にしか見えない一言と、世界ジュニアの頃だろうか、詩織に髪を結いで貰っている画像を繰り出した。ユーリ・プリセツキーは姉弟子と、という一言とともにリリアの元でバレエの練習をしている画像を、ミラ・バビチェバは大親友、と語尾にハートマークまでつけてプールに行った時のであろう、水着の写真をアップした。それに乗っかった詩織と同じバレエ団の団員が、やれうつくしいだの、やれ素晴らしいだの、褒めちぎりながらどんどん詩織写真をアップする。本人の素知らぬところで、戦いは激化していた。翌朝起きた詩織は、鳴り止まない通知と突如増えた自身のインスタのフォロワー数に驚愕し、昨夜に起こった事態を把握し、リリアに暫くレッスンに参加しないことを告げて、それから不貞寝を決め込んだ。





人の噂も七十五日。程なくしてパパラッチがハリウッド女優と有名ミュージシャンの熱愛ネタをスクープして、世の中の注意がそちらに動き出した頃、早朝のスケートリンクに詩織はいた。勇利がリンクについた頃には一心不乱にコンパルソリーを行っており、リンクサイドには真っ白いボルゾイが優雅に座っていた。勇利が来たのをちらりと一瞥したそのボルゾイは起き上がりもせず吠えもせず、ふいっと視線をそらして再び詩織を見つめる。詩織の飼い犬、なのだろうか、暫く満足した詩織がリンクサイド向かってくると、そのボルゾイはわん、と小さく一声鳴いた。さっと立ったボルゾイはベンチに置いてあったタオル咥えると、あがってきたばかりの詩織に渡す。ありがとう、ゾイ。ご主人に撫でられたのが嬉しいらしい。ぶぉん、と尻尾が地面を叩く。汗を拭いた詩織は、そこでやっと勇利に気付いた。

「おはよ、勇利」
「うん、おはよう」
「勇利は今日もスケート漬けかな?」
「今日の練習は午前中だけだよ、そういう詩織こそ、バレエ漬けでしょ?」
「驚いた。私も午後はオフ」

顔を合わせて、へぇーとお互い相槌を打つ。こんなに珍しいことは滅多にないねぇ、なんてのほほんとしながらお互い練習の準備を始めると、そうだ、と詩織が声を上げた。

「ねぇ勇利」
「んー?」
「どうせ午後暇なら一緒に遊びに行かない?」

サンクトペテルブルクに来てから随分しばらく経つが、まだこの街をちゃんと歩き回った事がない。自宅からリンクの近くはよく通っているから詳しいのだが、少し足を伸ばすとなると休日は出不精の勇利にはなかなか機会がなかった。ヴィクトルに案内を頼むと要らん物まで買ってきそうで怖かったし、ユーリはあぁ言ってまだ学生だ。勉強しているはずだから邪魔はしたくない。かと言ってギオルギーやミラなどのリンクにメイトに頼むのもなんだか忍びない。詩織からの提案はまさに天の助けとも言うべきだった。行く、と即答した勇利に、やったね、と詩織は微笑む。そして午前中の練習を終え、昼頃になり合流した二人は、なぜかニコニコしながら付いてきたヴィクトルと一緒にリンクの外にある休憩所で食事をとった。お腹もいっぱいになったし、普段着に着替えてくるから出かけよう、と立ち上がろうとした勇利を、ヴィクトルが呼び止めた。これ着てね、と語尾にハートマークまで付けてそうなその言葉に、勇利は警戒しながらトートバッグを受け取る。更衣室に入ってトートバッグの中身を確認した勇利は、しばらく中身とにらめっこをした後に半ばやけくそになりながらそれに着替え始めた。コーチには逆らえない。

「Wow! Japanese student!」

ぱちぱちと楽しそうに拍手するヴィクトルの目線の先には、なんだかな、という顔をする勇利がいた。黒いブレザーにグレーのチェックのスラックス、白のワイシャツにグレーのカーディガン、赤のストライプのネクタイ。寛子に送ってもらったという高校の時の制服を見に包んだ勇利は、僕もう二十四なんだけど、と口元を引きつらせる。そんな勇利に二十四だけど充分高校生に見えるよ、とちょっと疲れた顔をした詩織が肩を叩いた。こっちは臙脂色のタイがよく映えるグレーのセーラー服にカーディガンだった。それを見てヴィクトルの目が輝く。ジョシコーセー!Amazing!Wonderful!パシャパシャとシャッターを切るその姿は、現在再びデトロイトに戻ったSNS狂の友人を思い出す。ねぇ、勇利の腕に自分の腕を絡めた詩織はニッコリと笑う。

「せっかくだしこのまま遊びに行こうよ」
「え、このまま?制服で?」
「うん、バレないバレない」

されるがままに外に連れ出され、初夏のサンクトペテルブルクの空気を吸い込む。長くて短いロシアの夏に、街ゆく人々はどこか浮かれているようにも見える。早く、腕を引っ張る詩織について行き、サンクトペテルブルクを歩き回る。観光としては鉄板のイサアク大聖堂、冬宮殿、ペテルゴフ宮殿、夏の庭園。そしてリンクの近くにあったヴィクトルの通っていた学校、詩織が学生時代を過ごしたバレエスクール、よく行っていた、ケーキが美味しいカフェ。毛むくじゃらだけど、世界一美味しいピロシキを作る店主のいるレストラン。ヴィクトルと詩織がよく行っていた水族館や動物園、マッカチンの散歩をしていた公園。その公園の近くにあるお店でフルーツがたっぷりのせられたブリヌイを、二人でつつく。公園には日向ぼっこに来た人々がレジャーシートを広げて寝っ転がっていた。それをぼんやりと眺めながら、しばらくカチャカチャとフォークとナイフが皿とぶつかる音がして、私ね、と詩織がぽつりぽつりと話し出す。

「ボリショイ、辞めちゃった」
「……え?」

ガシャン、と勇利がフォークとナイフを落とした音に、詩織はしまった、という顔をした後に申し訳なさそうに笑った。

「そう言うんじゃなくて、あの、うん。バレエは続けるよ」
「なんだ、そっか」
「うん。ごめんね、」
「なんでか、聞いてもいい?」
「うーん、仲間はみんないい人だから別れたくないし、ずっと一緒にバレエやって来たいなぁ、とは思うけど。こないだ支配人と喧嘩してさ、じゃあ辞めちまえ!って言われたからじゃあ辞めます!って言って出てきちゃった」
「えぇっ!?」

引きつった顔をする勇利を見て、変な顔。と詩織はカラカラ笑う。皿の端っこに転がったブルーベリーをフォークに刺して口に運んだ詩織は、まぁ、と言いながら勇利の皿にフォークを伸ばした。勇利が注意する間もなく、キャラメルとリンゴのブリヌイが詩織の口の中に消える。

「ボリショイ辞めても働き口あるしね。アカデミーからは講師にならない?って誘いが来てるし、ピーテルのマリインスキーからも来年度からどう?って声かかってるし」

辞めてもあと十年くらいは遊んで暮らせるお金はあるし。ぶっちゃけあんなバレエ団辞めても痛くも痒くもないんだよ。あっけらかんに言い放った詩織に、左様ですか、と勇利は返した。ヴィクトルと言い詩織と言い、お金持ちは違うなぁ、と一口かけた自分のブリヌイを見る。なんせお互い勇利がピーテルで一人暮らしをすると聞いてから(危ないからと言って)一緒に住もうとして家をボンと買った(しかも一括払い)くらいだし。まぁヴィクトルは気付いていると裸で布団に潜り込んでくることがあるから詩織の家に居候してもらってるけど。けどねぇ、餌をたかりにやって来た鳩に先ほどパン屋で買ったパンをちぎって与える詩織に、どうしたの?と勇利は聞いた。

「そうしたらどっちも九月から始まるんだよね。夏の間暇でさ。時間持て余してるんだよね」

なんかいい暇つぶしの仕方分からない?そう聞かれて勇利は唸った。これまでのオフシーズンと言えば、自分は何をしていたのだろうかと聞かれれば、スケートだ。スケートリンクに篭って朝から夜まで延々と滑っていた。しかし詩織にスケートを勧めるのかと言えばそれはノーである。なんせ詩織も朝早くに来て滑ってから練習に行っているからだ。テーブルに置いてあったスマホがメッセージを受信してぴろん、と鳴る。ピチットからのメッセージが表示され、その後にはロック画面に設定してあるヴィクトルとユリオと撮った写真が現れた。何となくじっと画面を見つめていた勇利は、は気付く。

「そうだ!!」

いきなり大声をあげた勇利に、鳩がびっくりして飛んで行った。どうしたの、怪訝そうな顔をした詩織に、勇利は身を乗り出して詩織の手をぎゅっと握った。パンごと。

「だったら僕の今シーズンの振り付けをやってよ!」

勇利の言葉に詩織は最初事態を飲みきれずキョトンとしていたが、やがて勇利の言っていることを理解したらしく、パァと顔を輝かせた。ずいっと身を乗り出した詩織が勇利の手を解き、ぎゅうと勇利を抱きしめた。

「なにそれ最高!やるに決まってるじゃない!」

そうと決まればさっさと家に帰るわよ、ブリヌイなんて食べる暇無かったわ。テキパキと片付けを始める詩織に、勇利は笑う。考え事をしているその目はキラキラと光っていた。そして噂を聞きつけたヴィクトルが俺にも振り付けしてくれと駄々をこねに来るまで、あと一時間。


隙間を埋める


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