六月に行われるボリショイバレエの日本公演。二日に渡る公演も終わり、つかの間の休息をもらった詩織は、公演を見に来ていたミナコと合流して長谷津に向かう電車に乗っていた。車窓から見える風景は無機質なグレーから爽やかな緑に移り、長谷津に近づけば潮の匂いが鼻をくすぐる。野菜たっぷりのサラダに小さなおにぎり一つ。ヨーグルトをお腹におさめた詩織に、それにしても、とミナコが残念そうに詩織を見た。

「去年もついでに長谷津の方に帰れればよかったのに」
「ごめんね先生…向こうでゴタゴタしてて」
「そんなに緊迫してたの?連絡すら取れないって」
「いや、取れるには取れたんだけど、ちょっとしか取れないならもう一層取らない方がいいかなーって」
「ふぅん?」

ま、東洋人ってだけで差別される世界だからね、その上にあんたは最高峰のバレエ団のプリマ、取らなくて正解だったかもしれないわね。世界中を飛び回ったダンサーの言葉には、どこか哀愁が込められていたような気がして、詩織は聞かなかったことにした。でもやっぱりなぁ、頬杖をついて、ミナコは詩織を見る。

「やっぱり帰ってきて欲しかったよ、去年」
「えー?そんなに?」
「割と本気よ。去年は勇利が帰ってきてたし」
「勇利が?そうなんだ…」
「しばらく長谷津をホームリンクにしててね。あのヴィクトル・ニキフォロフをコーチにして」
「え、なにそれ」
「ほぅら知らないでしょ」
「知るも何も外部の情報はほとんどシャットアウト。聞いてたのはバレエの曲ぐらいよ?」
「そーでした」

ポケットからスマホを取り出したミナコは、いくつかスマホを操作してほら、と詩織に見せる。懐かしい長谷津キャッスルのリンクで真剣な話をする勇利とヴィクトルの写真である。ほぇー、となんとも間抜けだ声が出た。

「ヴィーチャが居なくなったって話はリリア先生から聞いてたけど、長谷津にいたのね…だから勇利とも知り合いだったんだ」
「あら、いなくなってた話は聞いてたの?」

というかヴィーチャ?頭をかしげたミナコに、ヴィクトルの愛称みたいなものよ、と説明してあげればへぇーという相槌の後にん?とものすごい勢いでこちらを見られた。

「ヴィーチャって、あんたヴィクトルと知り合いなの?」
「うん、幼馴染み、みたいなもんかな」
「はぁ!?」

素っ頓狂な声が車内に響く。なんで言わなかったの?ガクガクと肩を揺さぶられ、だって聞かれなかったから、と詩織は少し拗ねたように言った。あ、そう、脱力して項垂れたミナコは、じゃあ、と詩織を見る。

「勇利とは向こうでもう会ったのね」
「言いそびれちゃってごめんね。会えたよ」

ほら、と見せられたスマホの画面にはリンクの上で同じアラベスクのポーズを取って滑っている三人の動画。撮ったのはユーリ・プリセツキーなのだろうか、もういいか?と機嫌の悪そうな声が聞こえた。へぇー、楽しそうなことしてるじゃん。ミナコの声に、でしょう?と詩織は笑った。電車はゆっくりとスピードを落とし、やがて長谷津の駅で止まった。ロシアに渡った時から使っている白いレトロなトランクを引きずり、改札を出れば、じっとりとした空気が体を包み込む。

「まって、これ夏じゃなくて?」
「まだ六月よ」

暑くない?ロシアの涼しさに慣れてしまえば、日本の初夏は真夏日のように思える。薄いカーディガンを脱いだ詩織はパタパタと手で扇ぐ。橋を通って長谷津城を通り過ぎ、ゆ〜とぴあかつきを通り過ぎれば、周りの家よりは一回り大きな家が姿を現す。しっかり手入れの行き届いた庭には、色とりどりの花が咲き乱れる。家を囲む塀は赤いレンガ。純和風建築のゆ〜とぴあかつきと正反対の洋館、結城家がそこに建っていた。ただいまー、お帰りなさい。出迎えに来てくれたのほほんと笑う母親とおおらかな父親。ハグを交わしてここまで送ってきてくれたミナコに礼を言って、詩織は家の中を進む。階段を登り、自室に着くとぼふん、とベットに倒れ込んだ。とりあえず寝たい。





寝つきはいい方だし、寝起きもいい方だと思う。ゆっくり目を開けて窓の方を目を向ければ、カーテンに当たっているのはオレンジ色の光で。長谷津に着いたのが昼前だとしたら結構寝ていたはずだ。結構寝たなぁ、とベッドサイドからスマホをとってインスタを開く。ミラは美味しいスイーツを食べに行ったようで、ユーリは旅先で虎柄のTシャツを手に入れたらしい。今回公演を共にした仲間達は思い思いに日本を楽しんでいるらしい。秋葉原のアニメグッズ専門店で発狂している友人や沖縄で泡盛をがぶ飲みしている友人の投稿にいいねを付けて、詩織は寝返りを打った。そしてふと違和感に気づく。

「あれ、壁こんなに近かった?ってか、こんな色してたっけ?」

目の前に迫った壁に頭の中はクエスチョンマークが飛び交う。寝返り売っても向こうにスペースが空いているわけでもなく、だったら起きようと上半身を起こした詩織は、目の前に迫った壁の正体に、え、と声を零した。掠れていて声が出なかったのかもしれない。すぐさま詩織は目を逸らした。

「大丈夫、私は何も見ていないわ」

詩織は自分の胸を手を当てて自分に言い聞かせるように話す。

「そうよ、落ち着きなさい詩織。ここには何も無いのよ。だってここは詩織の部屋だもの。詩織の部屋には詩織の物しかない。そう、これは目の錯覚よ。詩織は何も見ていないわ、そう、そうよ。さ、そろそろ夕飯仕度の時間だわ、ひさびさにお母さんの手伝いにいこうかな!」

そろそろ夕食の仕込みが始まる時間だ。久々の里帰りだし母親とも話したい。先程見たことを全部見なかったことにしてベッドから降りようとした詩織は、ベットから立ち上がろうとした瞬間、パシッと腕を掴まれた。

「どこ行くの?」
「〜〜〜〜〜ッ、何でいるのヴィーチャ!!」

詩織の悲鳴が家中に響き渡った。そんな詩織を気にせずに、ヴィクトルはにへらと笑って起き上がった。肩までかかっていたタオルケットがぱさりと落ちる。辛うじて大事な部分は隠されていた。雪のように白い肌に引き締まった筋肉。自分の知っている男性のバレエダンサーの誰よりもいい体をしているなぁ、とぼんやり考えていたが、ハッと我に返った。

「服を着なさい!なんで裸なの!?」
「えー?だって」
「寝るときは裸でしよ!!知ってるわ!でもね!ここはウチよ、郷に入っては郷に従え。服を、着なさい」
「えぇー?」
「ヴィーチャ?」
「はぁーい」

のそのそと服を着はじめたヴィクトルに大きなため息をついて、詩織は部屋を出る。この様子だと勇利もユーリも来ているのだろう。置いていかないでー、待ってー、と自分のベッドでわたわたするヴィクトルを一瞥して、詩織はドアを閉めた。休暇ってなんだろう。ヤコフはこの事を知っているのだろうか、まずはヤコフに電話しなきゃ。

『何ぃ!?また長谷津に居るだと!?』
「あー、ヤコフには言ってなかったのね」

詩織は思わず天を仰いだ。リリアが一緒にいるのだろうか、電話の向こうで少し落ち着いてはどうかしら、と厳しい声がとんできた。とりあえず自分がロシアに帰る時に一緒に引っ張って帰ることを約束して、詩織は腰に回った腕を叩いた。

「シオリは細いなぁ。もっと食べないと」
「これが丁度いいの。じゃないとプリマなんてやってらんないわ」
「俺はもっと肉が付いてる方がいいなー」
「ヴィーチャの希望は聞いてないわ。さ、マーマがご飯作って待ってるから下に行きましょ?」
「カツ丼かな?」
「普通のご飯」

フクースナー!枝豆とひじきの豆腐ハンバーグを口に入れたヴィクトルは、これ美味しいよマーマ!とまるで子供のように目を輝かせた。嬉しかねぇ、とニッコリ微笑む詩織の母は、お代わりあるからねぇ、とフライパンを指さした。お座敷ないことにちょっとしょんぼりしていたみたいだけど、結城家にはこぢんまりとした和室はあるが、宴会を開けるほどのお座敷はない。そもそもこの家は洋風建築だ。お座敷で寝たいのなら隣の家に行け。ご馳走様、と手を合わせた詩織は、うん、と背伸びをしてリビングの隅に置いてあったヨガマットを丸めて備え付けられていた紐で止めた。ソファーの上に投げてあったトートを引っ掴んで行ってきます、と声をかければ、行ってらっしゃいと見送られる。その後をカタコトでゴチソウサマと叫んだヴィクトルが追いかける。流石に夜の長谷津は涼しかった。星がキラキラと輝く空の下で、詩織はアイスキャッスルはせつに向かって歩いていた。ポワント、パ、くるりと回ってからジャンプ。いくつかの動作を組み合わせて前を歩く詩織はアイスキャッスルはせつの看板を見つけると少し足早に走っていった。

「優ちゃん!!」
「え?あ、詩織ちゃん!わぁー、久しぶりやね!元気しよったー?」
「うんうん、元気ばい!優ちゃん、見なかうちに綺麗になりよったね〜」
「もー、褒めても何も出ないよ?それより詩織ちゃんの方がもっと綺麗!女の私でも見惚れちゃうもん」

そうやってぷぅ、と頬を膨らます様子は大変可愛らしい。そうか、綺麗というよりは可愛いか、心の中で納得した詩織は、もう閉まってるし、好きにしてていいよという優子の言葉にリンクドアをくぐる。こちらに目もくれずに一心不乱にコンパルソリーを行っている勇利に、ジャンプの練習をしているユーリ、カシュ、とブレードが氷を切る音が心地よい。ヴィクトルも練習着に着替えてきたらしく、ゆっくりとリンクの上を一周していた。リンクサイドでも比較大きな場所を見つけてベンチをどかし、大きなヨガマットを広げた詩織は、柔軟を始める。前屈、開脚、スプリッツ。ポジション練習、バーレッスン、一通り終わらせて、開脚したまま地面に体を寝かせてスマホをいじっていると、隣に優子がやってきた。そしてキラキラした目でリンクを見つめる。

「三人ともすごかねー」
「うん、すごかー」
「去年なんてもっとすごかったんよ?温泉
on ICEとか言って勇利くんとユーリくんがスケート対決して」
「へぇー、」

カシュ、とヴィクトルが氷を蹴る。その後に続いたガシュという鈍い音に、おや、と詩織は少し声を張る。

「ユーラチカ、軸足ぶれてるわよ」
「うっせぇ!」
「どうしたの」
「どうしたのって、お前らまたやるつもりなんだろ!温泉 on ICE!」

え、とリンクが静まり返った。そうじゃない、ここに三人揃ったからまたやってもいいわね…、そう呟いた優子に話を聞きつけたスケオタ三姉妹がどこからかひょっこりと飛び出してリンクの隅で事の行き先を伺っている。きょとんとユーリを見ていた詩織は、ヴィクトルを見た。そして二人でぱぁっ、と顔を輝かせる。勇利は不穏な気配を察知した。

「いいねそれ!リベンジかな、そういうの大好きだよ!」
「わぁお!シオリもそう思っていたかい?」
「もちろんよ!去年長谷津に帰ってこれなかったかれ今年こそは見たいわ!」

そうと決まれば早速ヤコフに連絡ね!うきうきとヤコフに電話をかけ始めた詩織に、プログラム用の音楽を探しに行こうとするヴィクトル。あ、あのー、詩織?ヴィクトル?勇利がそっと遠慮がちに二人の名前を呼べば、二人は揃ってくるりと勇利を振り返った。

「なんだい?ユウリ」
「どうかした?勇利」
「アッ、イエ、ナンデモナイデス……」

うわー、やっぱりこのふたりそっくりだー。心の中でトホホと涙する勇利と、言わなきゃよかったとガックリするユーリを他所に、二人はスケオタ三姉妹とキャッキャと盛り上がった。


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