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『君にはこちら側についてもらわなくちゃならないんだ』

混沌とした意識の中で、赤髪の男はニタリと笑う。しかしあれは人間と言っていいのだろうか。皮膚は黒ずんでおり、目からは真っ黒い液体が流れ出ている。黒い靄に覆われた体は、少しでも触れれば崩れ落ちそうなほど弱い。今の自分なら、クリスタルの力を有している今なら、この男は救われるかもしれない。ゆっくりとそちらに手を伸ばそうとすれば、ひんやりとした手に掴まれる。

『ダメです、なりません』

どうして、声にならない声に、手を掴んだ女は目を伏せた。

『それが世界の理なのです』

我が愛し子、額に降った柔らかさを含んだ冷たい空気に、沈んでいた意識が浮上する。おもむろにまぶたを開けば、目に写るのはダスカのどこまでも澄み渡った青空でも、カーテスの大皿のゴツゴツした赤茶色の岩肌ではなく、赤い布で覆われた低い天井だった。ビックリして飛び上がり、キョロキョロと周りを見渡す。華美ではないが品の良い調度品が所々置かれているこの部屋は、インソムニアの城にある宛てがわれた自分の部屋でもなく、ましてや自宅の自室でもない。となるとあの時隣にいたアーデンの仕業なのだろうか。紅茶に睡眠薬が仕込まれていた、その辺だろうか。着ていた服は脱がされて、着心地の良いネグリジェになっている事が、さらに警戒させる要因となっている。コンコン、とドアをノックされてビクリと肩を震わせたノエルは、じっと扉を見つめた。失礼しますという声とともに入ってきたメイドは、こちらを睨むように見つめるノエルに少し目を見張った。

「ご気分は、いかがでしょうか?」
「ここは、どこ」
「……すみません、」

私にも、よく分からなくて。目を伏せたメイドは、気付いたらここにいたんです、とノエルの鋭い視線に怯えながら答える。本当に何も知らないらしい。ごめんなさい、怖がらせてしまったわね。できるだけ優しく声をかけると、メイドはいいえ!と頭を振った。

「私がいけないんです、ルナフレーナ様の言いつけを守らずに、後を追うような事をしてしまって!」
「ルナフレーナ?あなた、テネブラエの人なの?」
「え、えぇ」
「……そうなの。怖がらせてしまって本当にごめんなさい」
「いいえ、」

お互い災難ね。そう笑って見せれば、メイドは少し頬を緩めた。あのそれで、カラカラとワゴンを推してメイドが入ってくる。ワゴンに配膳された食べ物を少しつまんで、彼女が持ってきた、フリルとレースがふんだんにあしらわれた真っ白なワンピースに着替える。俗に言うロリータファッションなのだろうか。胸のリボンを整えたところで、ノックなしにドアが開く。顔を覗かせたのは、アーデン・イズニアだった。アーデンはワンピースを身にまとったノエルを見て、ピュウと口笛を吹く。

「さすが俺、似合ってるね〜」
「悪趣味」
「ははっ、とんだ言われようだ」
「どうするつもり、アーデン・イズニア。ニフルハイムの宰相!」

大声を出したノエルに、おーおー、怖いねぇ、なんてアーデンはカラカラと笑う。

「何もしないよ?」
「嘘だ」
「ほんとだよ〜。何もしないって。あれ、俺そんなに信用ない?」
「……………」
「大丈夫大丈夫、本当に何もしないって。後でちゃんと王子様のところに返してあげるし、」
「後で?」
「そ、俺が君を大好きな王子様に返すまでに、君には会ってもらいたい人がいるんだよ」

こっちだよ、ほら。振り返って歩き出したアーデンを見て、メイドを見る。諦めたように頭を振るメイドに、ノエルもため息をついた。あなたも一緒に行きましょうと声をかけて、ノエルはメイドともにアーデンの後ろをついていく。明るいLEDの光が白い壁や天井に当たって眩しく反射している、何も無い通路をしばらく進んで、アーデンは立ち止まった。ポケットから出したセキュリティカードをかざすと、ドアはゆっくりと開いた。

「やっほー、将軍。ご機嫌如何かな?」
「………何の用だ」
「まーまーそんなにカリカリしないでよ。君にお土産持ってきただけだって、ほら、おいで」

部屋からひょっこりと顔を出しておいでと手招きされて、ノエルは仕方なくメイドと共に中に入る。綺麗に整頓された部屋の主は、足音に気付き、面倒くさそうに書類から顔を上げた。

「なっ!」
「レイヴス………?」
「レイヴス様!」
「お前達っ!なぜここに!!」






落ち着けノクト。今にもスマホを投げようとしているノクトにイグニスが言えば、俺は充分落ち着いている!と怒鳴り返される。こうなると分かっていたらノエルをアーデンの車に乗せなんてしなかったな、というグラディオの言葉に、そうだね、とプロンプトは頷いた。天候は相変わらず最悪である。絶え間なく鳴り続ける雷に強い雨。二人目である雷神ラムウの力を経るために一行はチョコボでダスカ中を奔走していた。レガリアはカーテスの大皿に入った時に奪われてしまった。もちろん、帝国の宰相であるアーデンと一緒にいたノエルも。そしてそのノエルだが、当然の如く全く連絡が取れない。

「男だけの旅ってむさ苦しいな」
「あーあ、早くノエル連れ戻さないとねー」
「……そうだな、じゃないと俺らの王子がいつまでも拗ねているしな」
「っ、…次行くぞ!」

そう言ってチョコボに跨り、ラムウの啓示がある場所に向かって走り出したノクトの後ろ姿を見て、お供の三人は顔を見合わせて肩を竦めた。







メイドとレイヴスから突き刺さる目線に、ノエルは気まずそうに目をそらした。

「だって、」
「だっても何もありません!帝国の宰相ですよ!何されるか分からないのに、よく!」
「落ち着け、ソフィ」
「ですがレイヴス様!!」
「本人はどうやら十分反省している」
「………はい、すいません。とても反省しています」
「分かればいい」

紅茶を一口飲み、それで、とレイヴスが続けた言葉に、ノエルは首を傾げた。

「お前はこれで良かったのか」
「何が?」
「……………だ」
「え?なに?」
「うちの妹とノクトが結婚することだ」
「…………なんで?」
「なぜって、」

言葉に詰まったレイヴスは、一拍置いてはぁ、と大きなため息をついた。片手で顔を覆いしっしっと手をヒラヒラさせる。そう、と立ち上がって部屋を出ようとしたノエルにそうじゃない!と半ばやけくそに叫び、椅子に座らせたレイヴスは、お前はノクトが好きなんじゃなかったのか、とノエルに聞いた。

「好きだよ」
「だったら」
「向こうが言ってくるまで待たないとダメでしょ。それに、私もうあんまり長くはないし」
「そういえばそうだな………………は?」
「え?」
「さっきの言葉をもう一度言ってみろ」
「向こうが言ってくるまで待たないとダメ」
「違うその後だ」
「私もうあんまり長くはない?」
「長くはない?どういう事だ」

形のいい眉はきゅっと歪められ、声は低い。落ち着いてよ、なぁなぁとレイヴスを宥めたノエルは、言葉のとおりだよ、とレイヴスに笑って見せた。

「私ね、人間じゃないみたい」
「は?」
「クリスタルから生まれた?人間もどき、的な」
「…………どういう事だ」
「んー、よくわかんない」
「あのな」
「けどね、アロレックス家には使命があるの」
「ルシス王の友達というやつか」
「違う」
「…………」
「真の王の力となり、共に闇を払うことだよ」

レイヴスは目を見開いた。

「いずれ来る闇を払うために、この身をクリスタルに捧げる。違うか、クリスタルに戻る、が正しいな」
「…………そうか」

にこにこと笑うノエルの肩に、メイドがそっと手を置いた。ありがとう、そうお礼を言うと、じゃあ、とレイヴスがノエルを見た。

「それを阻止する方法は無いのか」
「あるよ」
「…あるのか」
「うん。一つ目はこうやって六神からゆかりのあるものを貰い身につけること」

耳のピアスやブレスレットを見せると、物珍しそうにレイヴスはそれを見た。これ、全部高級品ですね。屋敷で審美眼を鍛えられたメイドがノエルの付けているアクセサリーを見て感嘆を漏らした。でもこれは一時凌ぎだけどね、と言うと、他にあるのか、とレイヴスが訊ねた。

「あるっちゃあるけど」
「どうした、言いづらいのか」
「言いづらいのかどうか聞かれればそうでもないけど、そっちはもうあまり宛にできないと言うかなんというか」
「そうか。言ってみろ」
「……最愛の人に純潔を捧げること?」

吹き出しそうになった紅茶をすんの所で止めたレイヴスはそれを慌てて飲み込み、お前はなんてことを言うんだと声を荒らげる。だってレイヴスが言えって言ったじゃんとノエルがめんどくさそうな顔をして、ティーカップを持ち上げようとしたノエルだが、突然やってきた頭痛に手が滑り、ティーカップを落としてしまった。カシャンという音と共に地面が琥珀色に染まる。頭を抱えたノエルに、レイヴスとメイドは慌てて駆け寄った。

「ノエルッ!?」
「ノエル様!」
「う、……あ"っ!」
「どうした!何があった!」
「………っく、う」

トンカチで頭を思いっきり叩かれたような痛みだった。レイヴスとメイドが自分の名前を呼ぶ声がギリギリノエルは意識を保たせていた。目がチカチカする。懸命に歯を食いしばり、気を失わないようにしていたその時、ノエルが見たこともない様々な記憶が、まるで洪水のように頭の中に流れ込んできた。レギスの部屋で見た歴代のルシスの王、歴史書でしか知らない他国との戦争、育っていく知らない子供、進化を続けるインソムニア、いつの間にか数を増やしていたシガイ。まるで自分の記憶のように、それらは鮮明であった。記憶の中にあるインソムニアはどんどん今の自分が知るインソムニアになった次の瞬間、記憶の中で誰かが一人の赤ん坊を腕に抱いていた。

「(これは、私だ)」

自分を抱いていた人は、嬉しそうにベッドで寝ている女性、ノエルの母親を見て笑った。

『この世に生まれてきてくれて、ありがとう』

少し震えていて涙声だったが、ノエルはこの声を聞き間違える事は無かった。ドクトゥス、父親の声だ。自分は目をぱっちりと開け、ドクトゥスを確認してキャッキャとはしゃいでいた。そんな自分を見て、父親はぽつりと零した。
すまんな、と。
それからのドクトゥスの記憶の中にはいつもノエルがいた。初めてパパと呼ばれた日、初めて立った日、初めて歩いた日、初めてノクトと会った日、幼稚園の入園式、自分とノクトにパンケーキを作った日、小学校の入学式、妻が亡くなり、自分が暗い顔をして泣いていた日、自分がまた立てた日、みんなで夏祭りに行ったこと、中学の入学式、初めてインソムニアの外に出た自分と武者修行したこと、高校の入学式は自分の制服に入学おめでとうの花がつけられなくて拗ねていたこと、オルティシエで、リヴァイアサンを訪ねた自分の後ろ姿、一人暮らしを始めてなかなか家に帰ってこなくて寂しかったこと。自分の大学の入学式に行けなかったこと、送られてきた写真を見て、母親に似てきたなぁ、とぼんやり思ったこと。ノクトが結婚すると言って、胸の中で自分が大泣きしたこと。そして、

『なら無用だ、死ね』

思いっきり胸に剣を突き刺されたこと。吹き出た血しぶき。紅くなる視界の向こうで、そいつはニヤリと笑っていた。顔を青くしているイリスがいて、タルコットは尻餅をついていた。ジャレットは驚いたように目を丸くしていて、"自分"は穏やかに笑っていた。

『今行くよ、クララ』

かろうじて動く腕で、"自分"は胸を掴んだ。ノエルは知っている。ドクトゥスはいつも小さなロケットペンダントを付けていた。そしてそこには昔、まだ母親が生きていた頃、家族で撮った写真が入っているのを。ふぅ、と震えた息を吐き出して、ドクトゥスはそっと自分の名前を呼んだ。

『なぁ、ノエル』
「……おとう、さん」
『ごめんな、ノエル』
「…っ、やめてよ、」
『一人にして、ごめんな、』
「あやまら、ないでよ」
『ノエル』

そうノエルを呼ぶ声は酷く愛おしそうで、優しかった。だからノエルも、ありったけの気持ちを込めて、なぁに、と聞き返してみた。

『父さんも母さんも、お前をずっと、愛してる』
『だから生きろ。命が燃え尽きるその一瞬まで、懸命に生きろ』
『お前の幸せを、祈っているよ』

記憶の中で、ドクトゥスが笑った気がした。
受け継がれる記憶