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イギリス訛りの癖のある英語(クイーンズイングリッシュ)も、慣れてしまえば結構聞き取れるようになるものだ。話すのにはそこまで自信はないが、書くのと聞くのは随分と上達した。
ロンドン暮らしだって数年経てば慣れたもので、仕事のないオフの日でも一人で散歩がてら歩き回ったり買い物をしたり、ちょっとしたトラブルの解決に帆走したりするようになった。最近は時計塔の連中だけでなく親交のある近所の人たちからも「ジャパンから来たトラブルバスター」だとか何とか揶揄されているが、変な渾名もそれなりに馴染んでいるということの現れだろう。

ここでの暮らしに不満はないが、オーブンとかが共用スペースにしかないのはいただけないよな。簡単な料理なら部屋の台所で事足りるが、少々凝ったものを作るとなると一階に降りなければならない。部屋から出て階段を降り、右手のキッチンに入り砂糖やらミルクやらティーセット一式を用意する。
今日は早めに目が覚めたからと何気なく手の込んだ朝飯を用意し始めたはいいものの、部屋にオーブンの類がないのをすっかり失念していた。フライパンで温めるのも良いが、せっかくなら美味しいものを食べてもらいたいから手抜きはしたくない。嬉しそうに頬張るなまえのあどけない顔、朝からだって見れるもんなら見たい。そう思ってしまうのは惚れた弱みか。

『あら、おはよう。相変わらず朝早いのね、シロウ』
『おはようございます、ミセス・ターナー』

この洒落たアパートメントの主人、老齢だがしゃんと背筋の伸びているしっかりした女性はターナー夫人だ。彼女はいつも早起きで、こうして早朝に料理をすればいつも顔を出してくる。そうして世間話やらニュースやら、新聞で仕入れたのだろう話だとかを一通り話すと去っていくのがいつものパターンだ。

『貴方の小さなレディは、もう外出したの?』
『え、ええと、なまえはまだ寝ています。ここしばらく忙しかったみたいで』

どうも少々思い込みの激しい女主人は、俺を小さなレディーーーなまえのお付きの人間か何かと勘違いしているらしい。何度言ってもわかって貰えないとなまえは説明を放棄したし、俺も中々訂正するタイミングを見つけることが出来ないためにそのままにしている。
ターナー夫人の言葉通りなら遠い東洋の島国から来たお嬢様とただのお付きである執事か何かの俺が同じ部屋に住んでいるのはおかしいんじゃなかろうかと突っ込みたいのだが、彼女は出会い頭にマシンガントークをかましてくるために口を挟めないでいる。

『そうなの。最近顔を合わせてなかったから、暇が出来た時にでもお茶したいと伝えておいてね。あ、友人から新しい茶葉をいただいたから、良ければ持って行って頂戴。その隣の小棚に新しい瓶が入っているわ』
『ありがとうございます。なまえと一緒に飲んでみます』
『ええ、是非そうして。後で感想を聞かせてね。それにしてもシロウ、貴方本当に料理が上手いわよね。きっとレディも喜ぶわよ』

ニコニコと機嫌よく台所を出て行ったターナー夫人の背中を見送り、会話をそつなくこなすことが出来たことに安堵し息を吐く。今日は話が長くなくてよかった。
壁に掛けられた大きな時計から鳩が顔を出し、小さく鐘の音が響いた。あ、そろそろなまえを起こさないと。


なまえは案外寝起きが良くないのだというのを一緒に住み始めてから初めて知った。
俺の家で寝起きしていた時は緊張感があったから起きるのにも苦労しなかったらしいのだが(そもそも聖杯戦争の最中にぐうぐう寝ている方がおかしいのではなかろうか)ロンドンに引っ越して来てから、彼女を起こすのは俺の仕事となっている。
ワインを大量に飲んだ翌朝は何故かスッキリ目覚めているのだが、普段は意識が覚醒するのにそこそこ時間がかかる。物凄く機嫌が悪くなるとか暴れるとかそういうものではなく、起こして暫くの間ボーッと宙を眺めているか、あるいは夢と勘違いして甘えて来たり話しかけて来たりだとか。大体九割九分前者、極々稀に後者である。

「なまえ、入るぞ」

あとはオーブンで温め、モーニングティーのためのお湯を沸かすだけというところまで準備をしたら、全てをお盆に乗せて一度二階の部屋に戻る。寝室の扉をノックしたが返事がない。物音もしない。やはりまだ夢の中にいるようだ。
同じ寝室で寝ているにも関わらず、入室する際に一声かけるのは偶々早く起きたなまえが着替えをしてる時にうっかり入ってしまった前科があるからだ。なまえは全然全く気にしていなかったし、同じベットに入り込んでいる癖に服を着てるとか脱いでるとか今更何言ってんだという感じだが、朝からそんなところに遭遇したら困るというか要するにそんな姿は心臓に悪いし変なスイッチが入るという男のサガに配慮した結果がこれである。そもそもこの時間になまえが起きていることはほぼないが、念には念を入れてというヤツだ。

「なまえ」

ドアを開けて入ったが、俺が起きた時と何ら変わっていなかった。大きめのベッドには小さく丸まったなまえが横になっている。一時間ほど前に俺が布団をかけ直した時のままの姿勢だ。
声を掛けて頭に触れたが、なまえはシーツを握りしめて気持ちよさそうにくうくうと眠りこけている。これは時間がかかると一旦カーテンを開け、部屋を明るくしてから再度ベッドサイドに置いた椅子に腰かけた。

「朝だぞ、起きろ」
「んぅ……さむい……」
「朝飯はあったかいもんにしたからな、起きないと食べられないぞ」
「……ねむいもんー……」

かけ布団を握り直す小さな手、うっすら開いたがゆるゆると閉じられる瞼、少しだけ開いた唇と視線を動かしたところで頭を抱える。朝からこんな無防備な姿を俺の意識がはっきりした上で間近で見るとかどんな苦行だ。自分の精神の為にもなまえの為にもこのままずっと寝かせてやりたいが、今日は早起きしなければならないと言っていたのは彼女自身である。

「なまえが起きないとって言ってただろー」

朝から心を乱してきた仕返しとばかりに冷えた手でなまえの頬に触れ、そのまま首筋まですーっとなぞる。

「っ、ひゃっ」
「……っ、」

あられもない声にくらり、揺さぶられたのは頭か理性か。何て言うかこう、精神的にきた。仕掛けたのは俺なのに、手酷くカウンターを喰らい撃沈する。

「う、わ」

ベッドから伸びてきた手に思い切り引っ張られ、なまえに覆い被さるように倒れた。布団で隔たれているはずなのにじわりと感じる温かさ、女の子らしく丸みを帯びた身体だとかを実感して頬が熱くなる。慌てて身体を起こそうにも、首元に回された腕がそれを許してくれない。
目の前数センチ。恨みがましくこちらを見やるなまえの瞳は、完全に開いていた。

「……しろうのばか、いじわる」
「ばかはどっちだ。くそ、なまえは狡い」

言葉を発すれば僅かに掠める唇に、どんどん脳内が熱に侵食されていく。

ああ、やっぱり狡い。こんな寝起きでさえもなまえには勝てっこない。
朝食を一旦部屋に戻したのは正解だったと頭の片隅で思いながら、無我夢中で小さな唇を食んだ。