暦ぞ回れ、始まりの日よ幕開けよ
「わたしはね、未来のわたしにあいたいの!」
幼き日の無邪気な記憶が、脳裏に蘇って消えた。
◇
早く帰りなさい、との遠坂の忠言が頭をよぎる。
---後戻りなど、してたまるものか。
空の色以外はいつも通りの通学路、その車道のど真ん中に異人が立っている。
街灯の灯りのみではあるが、彼の青い髪と真っ赤な眼が妙に目を引いた。すらりとしている癖に武人だと主張している体躯、その手にしている赤槍がギラリと光を反射した。
「悪ぃな嬢ちゃん。ここで会ったのが運のツキってヤツだ」
異人の癖に流暢な日本語を話す。
---当然だ、この男はサーヴァントなのだから。
世界は廻る。因果は紡がれる。
全身の肌が粟立つ。心臓の鼓動が煩い。
男は無造作に立っているように見えるが、欠片も隙が無い。
知らないが識っている。
この男は、今からちょうど数えて2分後に、わたしの胸のど真ん中を一突きにしてくれることを。
倒れ伏したわたしを、顔見知り程度のクラスメイトでしかない衛宮くんが、助けてくれようとしてくれることを。
「……バカみたいに無様な姿を晒し続けてきたけれども、生憎、タダで転んでたわけじゃないの」
知っている。サーヴァントから逃げるなんて不可能だ。だから逃げてなんかやらない。
もう決めたから。
何回かかったって、わたしは世界を駆けてみせる。
今度は諦めてやらない。どれほど過程が歪でも、必ずわたしの望む世界へ至ってみせる。
自分の総てじゃ不足なら、人様の運命すらも賭けてやる。例え世界を歪めてしまったって、道理に反していたって、わたしがわたしで在るために、わたしの世界を探し当ててやる。
「……わたしがこんなとこで、負けるわけないでしょ……!」
「惚れ惚れする啖呵だが、ちっと間が悪かったな。こんな出会い方じゃなけりゃ、良い関係になれただろうに」
音もなく距離を詰めてきた槍兵が、ひょいと顔を覗き込んでくる。
息を止めて、微動だにせずに、間近に迫った紅を見つめた。
「へえ、珍しいモンもってるじゃねえか」
一体どういう意味だ。
彼に「異形」と称された、わたしの引き起こしているこの現象のことに言及しているのか。それとも、北欧の英雄たる彼は、この事象の発端に気が付いていたということか。
否、今意味があるのは過程でなく現象だ。彼がどこまで知っているかより、彼がこれから何をするかの方が大切なのだから。
「本当に珍しいんなら、傍観してみるのも一興じゃない?」
「オレもそうしてェんだが、いけ好かないマスターの命令なんでね」
でしょうね。
あの男はわたしをまだ知らないから、ごく当たり前のように排除させるはずだ。だって、あの日だってそうだった。
「……さん、に、いち」
ゼロ。
からりと一笑した彼の表情が真顔に戻ったと認識したと同時に、片時も忘れやしないあの日の残像が視界を走った。足に魔力を込め、最大出力で地面を蹴る。
「……ッ」
見慣れた/見知らぬ鮮赤が、左右に視界を両断した。真紅の軌道が若干ブレて、また翻る。
「タチ悪ィ。まさか、先が視えるだなんて言わねぇよな?」
自分が膝をついて座り込んでいると気がついたのは、ワントーン低くなった声を認識したその時だった。
不機嫌そうに細められた紅の眼は、紛れもなく初めてみるものだ。手にした赤槍を回転させ、手荒に地面へと突き刺した鈍い音が、わたしの頭を揺さぶってくる。
「……さあ、どうだろうね」
「やってみりゃ解る、ってか?女をいたぶる趣味はないんだが」
飄々と言い放つ男の声が右から左に流れていく。
死に物狂いで後退したはずなのに、脇腹に重い痛みがはしった。無意識のうちに腰のあたりを手で押さえる。違和感を覚えて確認すると、右手に、どろりとした液体が絡みついていた。
想定より避けられていなかった。でも、ここで倒れ伏していない分、初手で致命傷を負った最初に比べれば傷は浅い。
また一瞬ぶれた景色が、世界が、瞬く間に元の様子を取り戻す。
目が焼けるようにあつい。
身体が沸騰しているかのように熱を持っていて、このまま世界に溶けてしまいそうだ。
脳髄から揺さぶられ、たちどころに身体のバランスを崩し、地面に膝をついた。
「……だいじょうぶ、変えられる……」
ぱきり、と何かが/眼鏡が音を立てた。
足元を見る。つけていたはずの伊達眼鏡が、右足の下で、真っ二つになってひしゃげていた。
「もう終わりか?」
「まさか。わたしは執念深いの」
「そりゃあ良い」
顔を上げた。数メートル先の男の紅い目が鈍く光っていた。
「へえ、珍しいどころか厄介なモンを持ってるときた。ますます見逃すワケにはいかねえなァ」
ワントーン下がった声音に怖気付きそうになったが、それよりも、右手にまとわりつく感触が気持ち悪くてたまらない。
でも、この感覚こそ、わたしがなによりも焦がれたもの。もう一度チャンスがあるのなら、絶対に、手放したりなんかしない。
◇
突き出された赤槍を後退り避けること2回。
横薙ぎにされたそれを飛び退いて避けること3回。
文字通り這々の体で地に伏しているわたしに対して、数メートル先のサーヴァントは機嫌が悪そうに舌を鳴らした。
地を踏み締める音がした。金属が音を鳴らした。
あまり気が長そうな男ではなかった。流石にこれ以上待ってはくれないらしい。
立ち上がらなければ。対峙しなければ。
なんとか足に力を入れようとしているけれども、上手くいかない。
「しかしお前のソレ、どこかで見た気がするんだが……。気のせいか」
声音が一歩一歩近付いてくる。
「……っ」
喉が凍りついたように動かない。
這って少しでも距離を取ろうと、アスファルトに投げ出した足を引きずりだしたその時、
「土御門!」
「……あ」
ああもう。たったこれだけで、総てが報われる。
意思と感覚がないまぜになった混濁の中、あの時と同じ声に、はっきりと名前を呼ばれた。
男物のスニーカーがぼやけた視界に入り込み、少し雑に肩に手を置かれる。
「待ってろ。絶対に助けるから、少しだけ待っててくれ」
身に食い込むほどに掴まれた肩の痛みだって、今のわたしには甘く痺れるものでしかない。耳元で囁かれた言葉は、今までに何よりも望んだセリフそのものだった。
絶対に助けるだなんて、無責任なこと言ってくれて。でも、衛宮くんのその言葉がどれほど嬉しかったか、君は知らないでしょうね。
もう一度その言葉が聞けるなんて夢のよう。
でも、わたしはわがままだから。夢の続きをみたいから。君を何度危険に晒そうとも、自分がどれほど傷つこうとも、全てを踏み越えて足掻いてみせる。
「平気だよ」
喉を開いて、冷たい空気を飲み込んだ。
「わたし、まだまだ頑張れるから、大丈夫……」
何を頑張るかわからないままだし、そもそもわたしの努力でどうにかなるものであるのかも知ったこっちゃないし、何の根拠もありはしない。
目の前の君の助けになるのならば、ともに駆け抜ける未来を望めるのならば、わたしは、歩みを止めるわけにはいかない。
幾度だってやり直す。
只のクラスメイトでしかなかったわたしを、あの日君は、当たり前のように救おうとしてくれたから。
そんな優しい君が、この世界で、未来を手にすることが出来ないなんて認めない。
だって。
あの時の君は、紛れもなくわたしのヒーローだったから。今度はわたしの番に決まってる。
不思議と、身体を回る熱も痛みもすべてが心地よく感じられる。ゆっくり立ち上がって、呆気に取られたような顔で立ち尽くす衛宮くんの横に並ぶ。
「土御門、どうして---」
そりゃあ当たり前でしょう。
「好きなひとに見せるんだったら、最高にカッコよくて可愛くて、頼りになるところでしょ?」
顔を合わせて、衛宮くんの目を真っ直ぐに見つめて。勝気な表情を見せてやりたいんだけど、上手く笑えてる?
ねえ。こんなにも言い訳を続けてきたのは、どうしても叶えたいことがあるからなんだよ。
お願い。
わたしを見てて。隣に並ばせて。背中を任せて。わたしを置いていかないで。
わたし、案外負けず嫌いみたい。もう諦めてなんかやらない。
本音を言うのってこんなに緊張するっけ。自分で言ったくせに妙に恥ずかしくなって、これ以上顔を見ていられなくて、衛宮くんに背中を向けるように前に出た。
「あのね。わたし、欲しい世界があるの」
「……え?」
青の槍兵の口角が上がった。彼の身体が僅かばかり沈んだように見えた。
身体の熱が一気に抜ける。ぞくりと背中に冷たい感覚が走る。足が縫い止められたように地面を離れない。ぼんやりと街灯が照らす夜道の中、緋の瞳が鈍く光った。
「衛宮くん。わたし、がんばるから……」
懇願した自分の声が空気に溶けた。咄嗟に後ろの衛宮くんの肩を思い切り押した、その時。
「ここで逢うべきでは無かったな、嬢ちゃん」
紅の刃が舞い、身体の真ん中にグサリと刺さった。
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