×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -



海事都市グリニッジ

The die is cast.


 牡丹と二人で住んでいるアパートメントの一室には簡単な台所しかない。必要最低限のものはきちんと揃っているが少し物足りないのが本音ではある。部屋に備え付けてある小さめのコンロとパン用のトースターでも料理は十分できるのだが、どうしても大きなオーブンを使いたい気分の時には1階にある共用のキッチンスペースで朝飯を用意することが多い。そういう時には隣人やら家主のターナー婦人がひょっこりやってきて彼らの分まで作る羽目になるが、まあ2人前も4人前も手間は変わらないので良いだろうと良く引き受けている。

 初めて振る舞った時に用意していたのが和食で、生粋のイギリス人たる二人はおっかなびっくり口に運んで眉をひそめたり注文を付けたりしていたが、最近は『ミソスープは作らないの?』だの『ナットウってやつはないのか』だの要望を伝えてくるようになった。輸入品は高いんだ、そう安安と味噌や納豆を購入できるわけではないので勘弁して欲しい。

 これも牡丹に言わせれば「別に良いよ、それくらい奮発しちゃっても。日本食恋しいでしょ?」とのことではあるが、家計を預かる身としてはできるだけ節約したい。日本のものを買えないほど火の車ではないし彼女のおかげでそれなりに余裕はあるのだが、そこはなんか譲れないものがあるというか。尤も、牡丹に日本食を食べたいとリクエストされたらすぐ用意できるくらいのストックは存在するのだから我ながら単純である。

「おはよ、士郎」
「牡丹おはよう。コーヒーでも飲むか、って……」

 例にも漏れず今日も早く目が覚めたものだから、共同のキッチンで多めに朝飯の下ごしらえをしていたら不意に背中から声をかけられた。
いつも俺が声をかけるまでずっと眠りこけている牡丹が、着替えて髪もある程度はセットした状態で欠伸をかみ殺しながらゆっくり扉から入ってくる。「珍しいな、牡丹が自分で起きるなんて。今日仕事だったか?」そう返答をして牡丹用のマグカップを準備しようとして―――固まった。

起きたにしても時間がおかしくないか。頭を支配する違和感に一旦手を止めた。決して広くはないこのスペースで、何もなかったかのように紅茶缶を物色する牡丹の横顔をじっと見る。

早起きとはいっても、精々朝飯が出来上がるころに起きるのが牡丹の「早起き」である。

 壁に掛けられた古めかしい時計に目を向け、今の時間を確認する。午前5時。まだ外だって暗くて、朝日が昇るころに起きて論文の締め切りだの研究発表用のレジュメが間に合わないだのと騒ぐはずの隣人の大学教授の部屋だって静かだ。

「……熱でもあるんじゃないか?」
「なーに、士郎失礼だなあ。偶には自分で起きることもあるよ」

 幼い子供相手に親がするように、牡丹が額をくっつけてきた。ピントが合わないくらいに近づいた顔、目をつむったあどけない表情に思わず胸が高鳴った。本能的に吸い寄せられるように唇を重ね、くすぐったそうに身を捩った牡丹の動きに合わせて離れていく。

「……そいういことしてなんて言ってない、ばか」
「すまん。……つい」

 今のは牡丹が悪い、なんて言ったら(怒りはしないのはわかっているが)手ひどい仕返しが待っていそうだ。彼女に主導権を渡してしまったら心臓が持たないだろうから黙っておく。スイッチが入った牡丹はいい意味でも悪い意味でも予想を裏切ってくるから困る。

「そ、そういえば、今日仕事だったとか知らなかったぞ」
「あれ、言ってなかったっけ。ちょっと出かけるー」
「どこに?」
「ロードのお使い。グリニッジだよ」

 「エルメロイU世」だなんて長ったらしくて呼び辛い、以前本人に向けてそう言った彼女の渋面が思い起こされた。ロードというのは、文字通り時計塔のロード。その中でも牡丹が懇意にしているのがロード・エルメロイU世だ。エルメロイU世と呼ぶにも長いしまどろっこしいとの牡丹の意見により、家ではロードと呼んでいる。本人と対面したときにうっかり呼んでしまわないかが大変心配である。
 そのお偉いさんとは、本人曰く「恐ろしいくらいの偶然と必然」で接点があったとか。詳しくは知らない。その彼から仕事を斡旋してもらうことが度々あり、こうして彼のお使いを引き受けてはこなす日々である。

 グリニッジというとロンドン郊外のグリニッジ地区か。行ったことはないが、グリニッジ天文台や国立海事博物館などを訪れる観光客が多いところと記憶している。ここから大体交通機関で一時間かからないくらい、思ったよりは近い「お使い」だ。

「じゃあ日帰りか。時計塔に寄ってから帰ってくるだろ」
「多分そうなると思う。レンタカーで行くつもり」
「へえ。因みにお使いって何を……」
「別に極秘任務でもなんでもないよ。40フィート望遠鏡をロードの部屋まで運べ、だって。何に使うんだろうね?」

 世間でもそこそこ知られているだろう天文遺産、ウィリアム=ハーシェルの40フィート望遠鏡らしい。かつて世界最大だったという反射望遠鏡である。もう解体してしまっていて、その主鏡をグリニッジ天文台で展示していると聞いたことがあるが、その望遠鏡の運搬が今回の仕事ということだろうか。もしや部品を全部回収してこいとかいうんじゃなかろうか。
 それにしても40フィートって、おおよそ12メートルとかそこらである。そんなどでかい、その上解体されていてバラバラのもんを何に使うのかなんて見当もつかない。そんな望遠鏡(の部品)を一人で担ぐ牡丹の姿も想像つかないししたくもない、というか無理だろう。いくら特殊なことをしているとはいえ、体格は欧米系の人間には劣るし筋力だってそこら辺の女の子と変わらないのだから。

「それは俺にはわからないけどさ。望遠鏡、40フィートもあるんなら部品も結構大きいだろうし多いだろ。ロードの研究室にもその辺のレンタカーにも入らないと思うぞ」
「……確かに。運ぶのって主鏡だけって聞いたけど、それでも結構重たそう」
「その主鏡、運送業者か何かに頼んで運んでもらうのか?こっちのだといまいち信用ならないが、日系の企業ならサービス良いだろ、多分」

 その分ペイも馬鹿にならないが、美術品の運送を手掛ける大手運送会社なら望遠鏡の輸送も難しくはないだろう。望遠鏡程度の近代の代物なら魔術的価値もそう高くないように思えるのだが。

「まさか。そういうのが駄目だから私に回ってくるんだよ。個人的に借り受けて来いって」
「牡丹ひとりで、か?」

 眉をひそめて押し黙る。自分が運搬する姿をイメージしていたのか算段を立てていたのか。小さく頬を膨らませていたが、ほうと息を吐いて遠い目をした。

「ロード、ついに頭ボケちゃったか……」
「っく、」

 その言い方があまりにもしみじみしていたものだから噴き出してしまう。タバコと不摂生やめるように進言するべきかなあ、本気とも冗談とも判別できないトーンの呟きを本人が耳にしていたら『余計なお世話だ』と不機嫌そうに吐き捨てるんだろう。

「俺、付いて行こうか」
「……お願いしますー」

 もしやロードに見透かされているんじゃないか、俺が牡丹に付いていくって。じゃないとこんなのを牡丹一人に頼んだりしないだろう。
放っておけなくてつい発してしまった言葉、それを聞いて牡丹が心底嬉しそうに笑った。


前へ|次へ
目次