イギリスと言えばやっぱりエールだろうか。 壊滅的に酒に弱いわけではないから、まあ人並みには飲むことだってある。外に出ればそこかしこにパブがあるし、そこにいる大体の若者はエールを引っ掛けているのをよく見かけるし、行ったことがないわけでもない。ただ、毎回毎回年齢確認をされるからあまり行くのは好きではないだけで。 以前、そう愚痴ると牡丹に笑われた。「まあ仕方ないよね、日本人の宿命だもん。きっと後10年くらいは確実に聞かれるから」なんて真面目な顔で付け加えた牡丹だって毎回レストランなどで年齢確認をされている。まあ彼女にとって若く見られることは悪くないことだろうから、幼く見られることに少々不満を抱えている俺とは「年下に見られる」事実の捉え方が違うのだろう。 しかし、そういった複雑な感情を持っている俺を気遣ってくれているのだろうか。最近は外で飲むのではなく、彼女がいつのまにか買ってきたワインなどを家でゆっくり飲むのが恒例となっていた。小さな気遣いをさらっとやってのける、彼女のそんなところが尊敬できる。気恥ずかしいし格好悪いから素面ではこんなこと言えやしないが。 だから、ワインに合うようなつまみを用意したりだとか、夕飯を少しだけ豪華にしたりだとか、疲れ切った顔をしている時には牡丹の好きなものを用意したりだとか。毎日の小さなところで返しているつもりだ。いつも彼女の笑顔や存在に大いに救われている俺が、彼女に全てを返し終わるのは一生かかっても無理だろうが、それならずっとずっとこれを理由にしてそばに居られる。狡い考えかもしれないが、そんなことを真面目に考えてしまうほど俺は彼女が居ないとダメなのだろう。 今の牡丹のブームは赤ワインらしい。それも時計塔の知り合いに良く譲ってもらっているらしく、さほど詳しくない俺でも高価ではないかとわかるくらいの高いものをボトルで持って帰ってくることだってある。 今日も今日とて例外でなく、仕事の報酬のおまけに貰ったらしいそこそこのワインをグラスに注いで口に含む彼女は上機嫌だ。 それほど広くはないが二人で住むには十分なくらいの、洒落ていて小綺麗なアパートメントで、アンティークなソファーに座って足をパタパタと揺らしている牡丹の様子は昔と何ら変わらない。変わったのは場所とか暮らし方とか、仕事とか。表面的なものはどんどん変化していくが、距離感や関わり方は昔のままだった。 「牡丹、明日はどうするんだ?」 「時計塔の偉い知り合いに会いに。士郎も一緒に来る?美味しい食べ物……はありつけないかもだけど、上等な茶葉はあるかもだよ」 「本場の紅茶ってやつか?それはそれで興味がなくもないが」 明日も仕事だから今日は一杯だけらしい。 席を立ってボトルを台所に持っていこうとした牡丹を制し、自分の飲み物を持ってくるついでに行くと告げて受け取る。 ありがと、背中にかけられる声は優しくて甘い。 「なんかね、上等なのはほんとに葉っぱだけで、淹れ方は素人の私でも適当だってわかる感じ」 「ず、随分大雑把な人なんだな」 「多分食料とか水分を摂取するのに味の良さを求めてないんだと思う。あの人、タバコ以外はガソリンと固形燃料としか思ってないんじゃないかな……」 二人がけのソファー、牡丹の隣に座る。自然と肩に牡丹の頭が乗せられた。仄かにシャンプーの香りがする。 遠い目をした牡丹の頭の中には、件の近いうちに体を壊しそうな食生活をしている当人の顔が浮かんでいるのだろう。確か、俺も以前遠目から見たことがあった。はっきりとは見えなかったが、黒い長髪の針金みたいなイメージの男性だったか。 「あ、そうだ士郎。そういえばエジプトらへんでまたトラブルが起きたって」 「この前のところか?」 「うん。懲りないよねあの人たち」 以前エジプトに足を踏み入れたのだって仕事絡みである。 牡丹の仕事は相変わらずで、以前と同じようにどこかの貴族やらいいとこの魔術師の家と短期契約をして、所謂何でも屋みたいなことをしている。 例えば貴族のパーティーに潜入するとか、遠方に伝言を伝えにいったり(未だに手紙を途中で開封されるのを恐れていたり、科学技術についていけない人もいるらしい)とか。いい宝石が入れば遠坂に連絡して取引だってするし、曰くつきのものを手に入れればコネを使って高額で売り捌いたりする。必要とあれば俺が手伝いで同行することもあるし、そうでない時もある。因みに手伝った際のペイは俺と彼女でフィフティ・フィフティだ。そういうところは牡丹もきっちりしている。 ごく稀に時計塔の偉い人(地位は高いのだろうが俺にはどのくらいの人なのかはよくわからない)が依頼してきたりするらしい。どこの世界にも組織のしがらみというものはあるらしい、特定の集団を贔屓していない牡丹のような立ち位置の魔術師が動いたことが何かと便利な時もあるのだろう。 俺はというと、最近は周囲、特に牡丹経由で時計塔の連中にトラブルバスターだと思われているようだ。紛争の仲介役の手伝いや護衛、雑用といった(規模の大小は問わず)争いの仲裁に関わることが多くなった。牡丹に聞くところによると「面倒くさいトラブルがあったらシロウ・エミヤを呼べ」とか言われているとか。教えてくれた張本人はニコニコしていたが、当事者としては苦笑いするほかない。頼りにされていることに対して悪い気はしないが、他人からの評価をこうして明確に耳にするとなんとも言えない気持ちになる。 「行く?」 「当たり前だろ。それなら俺、一緒に行くための準備しておくからな」 元々、この話の出所は時計塔だったと記憶している。ならばこの話が先に牡丹に通されたのも、彼女も一緒に連れていけという意思表示か。 そんでもって、一応疑問の形を成してはいたが、この言い方だと牡丹はエジプトに行く気満々だな。そうだろう、前行った時のはしゃぎようといったらもう。治安も悪かった上、周りの目があるため外では大人しくしていたが、ホテルに戻ると瞳をキラキラさせてあれやこれやと嬉しそうに話していたのだから。 思っていることは口には出すが言いたくないことを隠すのが上手かった牡丹だが、最近は少しずつ口にしていないことも読み取れるようになってきた。 些細な言動で考えていることを図れるようになったのが、何より嬉しい。それはきっと心を許されているという何よりの証拠で、こちらを信頼しきって緩んだ言動や表情が愛しくてたまらない。 「りょーかい。私、士郎のそういうとこ好きだよ」 「な、なんだよいきなり」 「へへ、言いたかっただけー」 ほら、今の顔が見られるのが、この声が聞けるのが俺の特権というものだろう。 ああやっぱり、距離は近づいているかもしれない。手を伸ばせば届く位置にいて、触れようと思ったら触れることが出来て、一番近くで甘えてくれる。この穏やかな居場所は高校時代にはなかったものだろうから。 「あのね、」 「ん?」 「士郎はみんなのものだから、私が独り占めなんかできないかもだけれど。それでも、私は全て君のものだよ」 ああ、珍しく少し酔ってるな。いつもだったらこれくらいじゃなんともなさそうだが、ここ数日は寝不足で忙しく動き回っていたからアルコール成分が身体を回るのも早かったのかもしれない。ぽつり、零された言葉に応えるように手を握る。 みんなのものっていうのは、誰かのためになることを行動原理としていることの比喩か。それで、 「あー……」 「?」 目の前の女の子の全てを手に入れられるだなんて、贅沢にも程がある。「私は全て君のもの」なんて、そりゃあとんでもない殺し文句だ。これを大好きなひとから言われるなんて男冥利に尽きる。 でも本当に牡丹ってやつは、俺がどんなに大事に思っているのかをまだわかっちゃいない。 「……俺だって、牡丹に独り占めして欲しい」 「え?」 俺はこんなにも牡丹に惚れ込んでいるのに、それが伝わってないのは少し寂しい。拗ねたような声音を感じ取ったのか、きょとんとしてこちらを見上げる牡丹はさながら小動物のようだ。 ストレートに口にしなきゃ伝わらないのだろう、俺がお前のことをどれほど愛おしく思っているかなんて。 「何があったって、最後に帰ってくるのは牡丹の所だろ。だから、俺はやっぱり牡丹のものだ」 何度だって言葉にすると決めた。どんなに時間がかかったって、わかるまでずっと言い続けると決めたから。 「じゃあ。今から独り占めさせてください」 出会った頃には然程なかった身長差や体格差も、今は結構大きくなったような気がした。溶けたような笑顔を向けてくれる牡丹の柔らかさもしなやかさも、俺にはきっとないものだ。 ソファーに座ってこっちを見上げる見慣れた部屋着姿、それすら目に毒だ。惜しげも無く晒された太腿も、スリッパを脱ぎ捨てた裸足の足も、こちらに向かって伸ばされた手も。 軽く肩を押しただけて倒れる背中も、ほんの少しだけ体重をかけたら「重たいよ」と嘯く声も、信頼しきったように首に回される腕も全部。 「だいすき。ずっとずっと、そばにいてね」 「俺だって、何を言われても手放すつもりなんかないからな」 三センチ先で牡丹が笑った。その顔を他の誰にも見せてくれるなと、らしくもないことを考えた。 end. [*前] | [ ] [戻る] |