言い訳をするようだが急いでいたわけじゃない。ただ、放課後にちょっとした約束をしていただけだ。 頼まれ事は自分に出来ることならば特に断っていない。今日も例外なく、生徒会会長である一成を経由して学校の備品修理を請け負った。修理には多少心得がある。嫌いではないし、むしろ得意な方だ。 それだけならたいしたことではない。その依頼主である生物化学部部長との約束の時間まであと2分。大遅刻とは言わないが、早足にして間に合うならば急いだ方が良いだろう。 そう判断し、階段を駆け上がるスピードを早めたのがまずかった。 「うわっ!」 「わわ……っ!」 登り終わって左に曲がろうとした、その時にちょうど廊下側から飛び出してきた生徒に思い切りぶつかった。 どんっと胸から腹にかけて衝撃がはしる。少し息が詰まってふらつき、咄嗟に踏ん張って左手を壁につくことで身体を支えた。 だが、俺がぶつかってしまった女子生徒は勢い余ってそのまま尻餅をついていた。足は無造作に投げ出されていて顔は下を向いているのでわからない。 高校生ともなれば男女間で体格の差が目立つようになってくる。そんなに身長差はなくともやはり男子は頑丈なのだろう。さらに相手は日焼けもしていない至って普通の女子である。毎朝鍛えてるわけでもあるまいし、ぶつかった拍子に怪我した、なんてこともありかねない。 頭ではつらつらと相手の身を案じながらも、目の前のことが別世界のことのように身体は強張っている。 「……あ」 あいたたた、と絞り出すような小さな呻き声。同時に軽いプラスチックが床に落ちたような音がした。金縛りが解けたかのように全身にスイッチが入る。 一瞬で頭が真っ白になり、慌てて目の前の女子生徒に声を掛けた。 「悪い!大丈夫か?」 「うん、平気……あぁ、衛宮くんだったのかぁ」 俯いていた女子生徒が顔を上げた。あ、同じクラスの女子だ。そんなに親しい関係ではないが、席が近くだからよく顔を合わせるクラスメイト。 平気と口では言っているが、しきりに足元を気にしている彼女の様子を見ると大丈夫なようには見えない。本当は怪我しているのではないだろうか。 まだ部活生で賑わうこの時間ならば保健室は空いているだろう。日頃そこまで縁がない場所を頭に浮かべつつ、廊下に座り込んでいた土御門牡丹に手を差し伸べた。 「ありがと」 ちょっと困ったような笑みに、ぐっと何かが揺さぶられた。 そのあと遠慮がちにきゅっと繋がれた掌に、ひときわ大きく心臓が高鳴った。思っていたよりも柔らかい掌に、目の前の彼女が女の子だという事実を実感してしまって、また頬が熱くなる。そんなことを考えていられる事態じゃないとわかってはいれども、頭の中は大変正直だ。 自分から手を差し出しておいていうのもあれだが、そうそうクラスメイトの手を握る機会なんてないものだ。 だから、これは、仕方のないことだ。仕方ない。 誰に弁解するでもなく、頭の中で同じフレーズを反芻する。 うん。だから、立ち上がった後に離れてしまった手が名残惜しいなんて思ったりしていない。そんなこと気の迷いだ。きっと。 土御門はしっかりと立っている。見たところ、ふらついたり力が変に入ったりもしておらず、どうやら重症ではないらしい。 もう痛みは引いたのか、調子を確かめるように足首をぐるぐると回す。最後に爪先で床をたたいた後、彼女は申し訳なさそうに見上げてきた。 「衛宮くんこそ大丈夫だった?」 「俺は平気だ。あ……眼鏡、」 落ちていたぞ、と続けようとして身体がフリーズした。 少し俺より背が小さい土御門が、まっすぐ向けてきた視線に囚われる。 普段はレンズ越しにしか見ないクラスメイトの女の子が、目の前数十センチメートル先にいる。 普通の高校生男子としては、この状況は心臓に悪い。顔面に血がのぼるような感覚と戦いつつ、平静を装って口を開いた。 「……っ。ほ、ほら、眼鏡、落ちてるぞ」 「あ、うん。ありがとう、衛宮くん」 そう何度もクラスメイトに翻弄されてたまるか。内心意気込んだはいいものの、やはり心臓の爆走は止まらない。 この動揺が土御門に気づかれていませんように。半ば祈るようにして床に転がっていた眼鏡を拾って手渡した。 ぱたぱたと制服の汚れをはたいて落とし、少々乱れていた制服の皺を手際よく直す姿を放心して見つめる。こちらの視線に気がついたのか、そのまま土御門は眉を下げて告げた。 「私の前方不注意でごめんね、衛宮くんに怪我なくて良かったよ」 それはこっちのセリフだ。 じゃあまた明日ね、と小さく手を降って階段を降りていく小さな背中。どうしてだかわからないが、土御門の姿が見えなくなるまで目を離すことができなかった。 明日、会った時にもう一度様子を確認しておこう。時間が経ってから痛みが出て来ることもあるかもしれない。 [ ] | [次#] [戻る] |