「臨 也」

焦ったようなシズちゃんの声が耳を通り抜けてゆく。
何を今更、そんな声を出して。当てるつもりで振り回していたんだろう。そう笑ってやろうとしたら、一瞬遅れて、目の辺りがひどく熱くなった。カッカしたと熱はあったが、不思議と痛みはなかったように思う。あまりの熱さに手のひらで目に触れてみれば、ぬるっとしたいやな液体が手のひらを濡らした。
ひょっとしてこれは血か。
目を凝らしてみるものの、気が付けば視界は目の前で花火か何かがはじけたように、閃光でいっぱいになっていた。あんまりにも明るく眩しかったので、ゆっくりと目を閉じていく。黒のカーテンが視界を完全に覆う前、ぼんやりとした金色が近づいてくる気がした。あれも光だろうか。確かめようと目を開こうとしたが、俺の瞳が再びなにかを映すことはなかった。




眼球譚





「大分よくなったんじゃないかな、うん」

しゅるしゅる、と衣擦れのような音を響かせ、俺の目を覆っていた包帯がゆっくりと取りのぞかれていった。
の、だと思う。

「ゆっくり開けてみて」

いつになく柔らかな声色の新羅に従って瞼を開けようとしたが、まるで固まってしまったようにぴくりともしない。視力があるのかどうかもわからない、依然として閉ざされたままの瞳。ねじで締められてしまった制御のきかない瞼の存在に焦る俺とは対照的に、新羅はあっけなく「はい、もういいよ」と言って、何かをさらさらと書いた。カルテの類か、それとも何かをメモしているのだろうか。音だけで判断することはできない。

「新羅」

視覚に頼らずとも、手段ならいくらでもある。そう思いながら問い掛けると、ボールペンだかのインクが紙を滑る音を響かせたまま「なんだい」という新羅の声が鼓膜を震わせた。
……はたして自分の中の岸谷新羅はこのような声をしていただろうか。今俺と対峙している相手が新羅であるのかどうかですら確信が持てない。確かめる意味ももって問い掛けたのだが、応える声を聞いても、未だ確信には至らなかった。
ベッドから半身を起こして、おそらく新羅が立っているであろう空間に向かって声をかける。

「俺は、どうなったの」

もしも鏡を見ることができたら一目瞭然なのだろうが、今眼前にいるのが新羅かどうかわからないように、今の俺には誰かに問うことでしか何かを認識することが不可能なのだった。
俺のイメージの中で、新羅はしぶるように眉をひそめて「あぁ」と意味も無くため息を洩らすように呻き、俺の急かす声に押されるようにして重々しく口を開いた。

「……臨也、君は…その、静雄と 喧嘩して、目を怪我したんだ」

言いにくそうな新羅の言葉の続きを追迫するように「それは知ってる」と言えば、俺の思惑とは裏腹に、新羅は押し黙ってしまった。

知っていると言ったのは嘘ではない。おぼろげで断片的ではあるが、記憶とよべるものは確かに存在する。

夕暮れ、池袋、路地裏。
平和島静雄、挑発と咆哮、交戦。
目まぐるしく張り巡らされ交錯していく死線、凶器と化した道路標識に弾かれて夕日にきらめくナイフ、まばゆい閃光――そう、一瞬の出来事。




「……で、俺の目はどうなったの」

瞼の内側で蘇った映像を打ち消すように発せられた声はひどく脆弱で、自分のものではないように聞こえた。
試しにそろそろと口元に指を持っていってみる。そこには確かに己の唇であろうものはあったが、まるで未知の物体を触っているかのように手応えがない。おそろしくなってすぐに手を放してしまえば、唇は俺のものではなくなってしまった。「ねえ」勝手に零れる言葉を冷たい沈黙が包む。スリッパがフローリングを滑る音や何かが動くわずかな気配こそはあったが、新羅が声を出すことはなく、そこに新羅がいないのではないかという疑問さえも芽生える。

「、ねえってば」

沈黙に耐え切れずに溢れた、まるで親の手を離してしまった子供のような声に応えたのは、俺が予想だにしなかった声だった。

「……臨也」



平和島静雄
、という名前とともに、彼を構成する情報が真っ黒の世界に浮かび上がる。
傷んだ金髪に無駄に高い上背、モノクロの衣装。その全てを確認することはできないが、ここにいるであろう彼はおそらく、平和島静雄だった。
ならば、こんな悠長にベッドに体をまかせている場合ではない。錆びた機械のように軋み痛む体を叱咤しつつベッドから飛び降りる。同時に、ガシャンと派手な音を立てて点滴か何かがが倒れるような音がして、俺は着地した姿勢のまま腕で頭を押さえて蹲った。どこからどんなものが降り掛かってくるのかわからないということは、こんなにも恐怖だったのか。


しばらくその体制で固まってみたものの、結局、衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
ふうと小さく安堵のため息をもらし、俺は手を伸ばして探り当てたベッドの縁を掴んで立ち上がった。

「やあ、」

できるだけ、なんでもないような声を出そうと努力してみたが、無様にも震えてしまっている自分の声が嘆かわしい。

「シズちゃんだよね。いつから――」

がたん。
俺の閉じられた視線の先ではなく真後ろから、返事をするかのような物音がして、とっさに首だけで振り返る。……そんなことをしても後ろで何が起こっているのか確認するには至らないのに、条件反射で振り向いてしまった。仕方なくじっと耳を澄ましてみれば、そこからはわずかに衣擦れの音や呼吸の音が聞こえることに気が付いた。

「、……あ ああ、ごめん。こっちにいたのか」

どうやら俺は正反対の方向を向いていたらしい。ベッドから飛び降りた時に方向感覚が狂ってしまったのか。何にせよ、背後を取ったにもかかわらず攻撃のひとつもしてこない平和島静雄に若干の違和感を覚えつつ、ベッドを支えにゆっくりと向き直る。

「ねえ、なんで何もしないの。相手が無防備だと攻撃してこないのかい。随分と、怪物のくせに殊勝な心がけじゃないか。……ひょっとして、」

長台詞を言い終わる前に何か武器になるようなものはないかと必死に手で探らせてみたが、冷たいシーツ以外は何も掴む事はできなかった。仕方なく、台詞を続ける。

「責任感じちゃってる、とか、」

バカにしたような声音で言えば、ひゅっと、息を飲むような音が重なった。冗談で言ったことに、そんな反応されても困る。

「……嫌だなあ、そういうのやめてよ。相手は俺だよ。君の大嫌いな折原臨也だろ。殺すつもりで今までやってきたんじゃないか」

そこにいるの、本当にシズちゃんなの。
教えてあげようか、君の前にいるのは視力を失った折原臨也だ。まともに抵抗も抗戦もできない、非力な折原臨也。
だからといって罪悪感を感じることはないよ。だってここにいるのは折原臨也だからね。
逃がすのかい。こんな、今後二度とないかもしれない絶好のチャンスを。

長い台詞を言い終えてから、無意識に自分の名前を連呼していた事に気が付き、誰か――たとえ平和島静雄が相手でも、自分の存在を確認してもらいたかったからなのかもしれないと思った。
そう、それが自分の存在を確認するためであっても、だ。俺にとって明らかに無益であるどころか害を及ぼしかねない、そんな危険を孕んだ情報まで与えて、これでもかといわんばかりに焚き付けてやったというのに、耳に流れたのは拍子抜けするくらい平然とした声だった。

「殴られてえの、おまえ」

低く、感情を押し殺したような声。今までの怒鳴るような獣の咆哮が嘘みたいな、一度だって俺に向けられたことのない声音だった。

「……別に、そういう訳じゃないけど。もしここに俺の知ってるシズちゃんがいたら、殴るなり何なりすると思ったから」

言い終わってまもなく、すたすたとスリッパが歩を進める音がして、頭にコツンと何かが落ちた。おそらくは拳骨だったのだと思う。思わず顔を上げたが何も見えるはずはなく、俺の眼球はただ黒を映した。もし目が見えていたら、そこには本当に因縁の敵が映ったのだろうか。彼の拳骨というものは、もっと石のように硬く冷たいものだったはずだけれど。

「これでわかるか」

思案に沈む意識を震わせた声は柔らかく温かい、どこか優しげな響きをもってはいたが、記憶と変わらない『平和島静雄』をあらわす低音だった。心地よいなどと思ったり、ましてや安心などは、断じてしていない。





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