軋む鼓動




冷泉恭真と関わった人間は、皆口を揃えてこう言う。彼は麻薬である、と。それは、その人間とは思えない美貌もさることながら、大部分は彼の人間性についてであった。簡単に言うと、彼は、酷く口が上手い。相手の弱点や、弱味を突くことに非常に長け、つまり出会った人間はことごとくそうして彼に揺さぶられていくのだ。
それは単純に脅すのではなく、自分の欲しい言葉を欲しいタイミングで与えてくれるというのが非常に多い。
優しく優しく、緩やかに冷泉恭真という毒は浸透し、気付いた時にはもう遅い。最早手遅れなほど彼に溺れているか、彼が既に飽きているかのどちらかであった。
だから誰も気付かない。自分が恭真の手駒になっていることに。あるいは、自ら望んで彼の駒となる者もいる。彼の囁く甘い甘い言葉の中毒となり、それが欲しいがために手駒となる。
すなわち、冷泉恭真本人もとてつもなく手強いが、彼に辿り着くまでのその過程も、酷く困難であるといえるだろう。
恭真に毒され、無意識に操られた人間が大勢邪魔をしてくることは予想に容易い。
そこに、見知った人間、あるいは、親しい人間がいるならば、尚更のことだった。





沙弥は、大きな屋敷の一室にいた。
以前訪れた冷泉邸とは違う、あれよりさらに大きな屋敷であった。そこは所謂、冷泉家本家であり、幼かった恭真が幼少期に閉じ込められて過ごした屋敷でもある。
故に彼がこの屋敷に帰ってくることは稀であったが、今回は思った以上に大きな騒ぎとなったことに加え、しばらくは現在地がバレない必要が出てきたため、仕方なくといった理由で滞在している。
平城に別れを告げた沙弥は、自分の意志で黒崎と行動を共にし、ここまでやってきた。
そして、案内された部屋へと歩を進め、奥の奥にある荘厳な部屋へと辿り着く。ここは、冷泉邸の中でも本家の人間と、一部の使用人しか入ることを許されない、特別な場所であった。すれ違う人間もほとんどいない。
一度深呼吸をして、思い切って襖を開け放つ。


「…いらっしゃい、君はこっちを選んだんだね」


どこよりも美しく、品のあるその部屋の中央に、冷泉恭真はいた。
黒と紫の着流しを緩く羽織り、のんびりと寛いでいる。沙弥の姿を認めると、少し身体を起こして来い来いと手招きをする。それに引き寄せられるようにふらふらと近寄る沙弥を抱き寄せると、そのまま膝の上に乗せて優しく髪を梳いた。
「……いい子だね、君は、何も悪くないよ」
その言葉に、びくりと肩を震わせる。
平城を、傷つけたくはなかった。彼女の二の舞にしたくなかった。そんな一心で拒絶したが、沙弥の心にはほんの少しの罪悪感が消えないでいた。それを許す言葉に、心が凪いでいく。逃げだと分かっていても、その甘い言葉には抗おうとは思わなかった。


「沙弥ちゃん、君は何も悪くないよ」
「平城君を、傷つけたくなかったんでしょ?…偉かったね、自分から守ろうとして、頑張ったね」
「大丈夫だよ、君は正しい…これで平城君は、青空友ちゃんのようにはならないからね」


自分は正しかった。
どこまでも己を肯定し、もう大丈夫だと囁く言葉に、安堵する。大丈夫だ、自分は正しい。これで平城は、大丈夫。そう確信する。
よく頑張ったね、と、優しく髪を撫でるその腕に身体を任せ、緊張の糸が切れたのか、そのまま沙弥は眠りについてしまった。


甘い毒に犯されていく。