淋しい嘘吐き



さぁさぁと降り注ぐ雨に、ゆっくりと身体を起こした。
やんわりとその身を包む腕は、昨夜と違い、くたりと力を抜いていて、腕の主が気持ちよさそうに眠っていることを暗に示している。
深い眠りについている彼は、ちょっとやそっとでは起きそうにない。
不自然に目が冴えてしまった梨花は、そっと恭真の腕の中から抜け出し、散らばる衣服を適当に身に付けて、欠伸をしながらシャワーを浴びにいった。


「……」


頭から熱いシャワーを思い切り被る。艶やかに煌めく黒髪に水滴が滴り、ぽたり、と落ちた。
わかっていたことだ、と、叫びたくなる心の内を必死に抑える。
自分は、誰かの代わりだ。
何度も何度も名前を呼ばれた。乞うように、縋るように、泣くように、あまりにも悲痛な声で彼が呼ぶ、その人は。きっと、自分ではない、誰か。
彼は自分を「梨花ちゃん」と呼ぶ。けれど、夜は違う。
「りんか」と、あまりに熱の篭もった声で名前を囁くのだ。たまに、彼がいつも付けているネックレスの指輪を無意識に弄っているところも見かける。
だから、多分。自分ではないのだ。
人は彼を、愛を知らない人形だと言うけれど、違うと思う。愛を知らないなら、どうしてあんなに優しい手つきで自分に触れるというのだろう。どうしてあれほど、暖かい、そしてどこか寂しい笑みを浮かべることがあるのだろう。
愛を知らないんじゃない。きっと、彼はなくしてしまっただけなんだ。
…そうであれば、いいと思う。その相手が自分でなくても、彼が一時でも幸せであったなら。


「……っ、」


嘘だ。
違う、本当は、自分でなくてもいいなんて、嘘で。誰か、じゃない、自分自身を見て欲しくて、でも、それでも今、彼を慰められるのは、自分だけで。それが、途方もなく嬉しくて。
自分だけだ。彼が、ほんのひとかけらでも、そういった弱みを見せる女は、自分だけだ。自分が慰めている、あの人を。誰より悲しい、寂しいあの人を。
ああ、なんて醜い独占欲。
自分は彼に気に入られている。けれど、大切にされている。関わり、なおかつ自分のお気に召した相手をことごとく破滅に追い込むあの人から、大切に扱われているのだ。
たとえ、それが誰かの代用品だったとしても、優越感を抱かないわけがない。

彼は、自分の愛した冷泉恭真という人は、常に破滅が付き纏うような男だった。
彼の持つ破壊欲は純粋な無邪気さと直結していて、子供がありを潰すように、笑って他人を踏み潰していく、そんな人。
彼は、気に入った人間は全て完膚無きまでに破壊しなければ気がすまない。
壊れるまでは、激しい所有欲で囲っていたとしても、壊れればすぐ、飽きて別のものにいってしまう。壊れたら、捨てて、また新しい玩具を探す。
だから彼の"気に入っている"を、世間一般の"気に入っている"に合わせてみると、多分、「壊れてもなお、その並外れた執着心を持ち続ける相手」になるのではないだろうか。

現在、それに該当する人間を、梨花は二人知っていた。
一人は、桜木風葵。どういった理由からなのかは知らないが、彼女は、恭真からとても可愛がられている。それも、からかい半分興味半分の軽いものではない。他の相手にするように、手を出すような素振りはまるでなく、まるで恋人に対するような、そして、どこか娘に対するような、そんな可愛がり方だった。
だから、該当はしていても、彼女が恭真に壊されることは、有り得ないだろう。
そしてもう一人は、そう、自分だ。自分は彼にとても可愛がられている。これは、自惚れでもなんでもなく、客観的事実として、ほぼ確信を得ている。
自分は、彼にそういった揺さぶりをかけられたことも、試すような言動もされたことはない。相手より自分が優先、と言わんばかりに、約束をろくに守らない恭真であったが、梨花との約束を破ったことはなかった。もちろん、すっぽかされたことも、ドタキャンされたことも、一度としてない。その上、何かあると守るような素振りも見せてくれることもある。
だから。壊される可能性はあるとしても、すぐに捨てるようなことはされないだろう。
それだけでよかった。だから、そんな…謝る必要なんて、これっぽちもないというのに。望んで傍にいるのは、自分なのだから。
「…ごめん。ごめんね、梨花ちゃん…」意識の落ちる寸前に、悲しげな声で囁かれたその言葉。謝らないでよ。謝るくらいなら、どうか抱きしめて下さい。
誰かを求めて宙をさまよう、その腕で。
雨はまだ止まない。






「っ…りんか…」

梨花のいなくなった、寒々しいマンションの一室。
苦しげに口から漏れ出した名前は、一体誰のものなのだろう。