聡明なブルー



「はじめまして。所謂大人の事情というもので、今日からしばらくここの教員をすることになった、冷泉恭真です」
よろしくね、と言って微笑んだその人の顔は、確かに極上の美を体言していただろう。
「あ…、」と声を出したのは、彼が挨拶をした教室の席に大人しく座っていた、田村沙弥という女子生徒だった。
知り合い、と呼ぶほどの面識はないが、赤の他人でもないという曖昧でおぼろげな関係のある男が意外すぎる経緯で再び自分の前に現れたことで、少なからず驚きの表情が顔に現れていた。


「では冷泉先生、後はお願いしますね。私は少々用事がありますので」


それだけ言って、このクラスの担任である風来灯真は教室から出て行った。ドアから出る寸前、ふっと恭真が笑う。その視線を受けて、風来は、生徒達に気付かれないように、苦々しい顔で出て行った。
「…全く、誰も彼に気に入られないといいんですがね」
長い溜息は、誰もいない廊下に消えていった。




「君って、ここの生徒だったんだね」
授業の合間の、休み時間。廊下にいた沙弥に、恭真がやんわりと笑って話しかける。
先日の事件のこともあり、「あー…そうですね」と目を逸らし気味に答える沙弥に、恭真は、くすくすと男にしては上品にほのかな微笑を零した。
「こないだは、ごめんね?まさか気絶するなんて思わなかったんだ。特に他意はなかったんだけど…悪い癖だって、怒られたよ」
すまなさそうに言う彼の姿に、沙弥は「あ、いえ全然…気にしてませんので」とだけ返し、そのまま教室に入ろうとする。
その腕を引き止めて、また彼は笑った。
「…?あの?」「…これから、よろしくね?」
ふわりと微笑む、その優しい微笑に、よろしくと返して、沙弥は今度こそ教室に戻っていった。



「……、」
吐き気がする。臨時講師だといってやってきたその男を見た瞬間、早乙女は猛烈な吐き気に襲われた。
歪に作られた、優しげな表面。言うことなすこと、全てが嘘で塗り固められているようで、気持ち悪い。それだけじゃない。何が一番気持ち悪いのかって、それを隠そうとする素振りが一切感じられないということだ。普通の人間は、多少なりとも自分の欲を画そうとする。けれど、彼はそれをしない。自分を繕っているということを、少しも隠そうとしないのだ。だから、多大な違和感に襲われる。そう、噛み合っていない、そんな感じだ。
「……気持ち悪い、」思わず、そう口にする。意図せず口から漏れ出した言葉だったからか、その呟きを拾ったらしく、壁にもたれかかって書類に目を通していた恭真が、緩慢な動作で早乙女の方に向き直った。その口元には、計算尽くされた完璧な笑みが張り付いている。
「それって、僕のこと?」にこり、と温度のない笑みを浮かべる。それは、あまりに、冷たくて。それ故に、どこまでも綺麗な笑みだった。
恭真に見つめられて、早乙女は、世界には自分と彼しかいないかのような錯覚に陥っていた。急速に、周りの風景が背景と化していく。
本能的に、拒否反応とでもいうべき感情が湧いて出た。駄目だ。自分は、彼が嫌いだ。
そんな反応を見て、一層深い笑みを浮かべる。靴音を響かせて、ゆったりとした足取りで早乙女の方まで歩みを進める。嫌悪に染められた早乙女の瞳を覗き込んで、甘やかな吐息と微笑みを零し…そのまま、何事もなかったように彼とすれ違って、歩いていった。



「あら、先生、どうしました?」
くすくすと笑いながら廊下を歩いてきた恭真に、花鳥が穏やかに話しかける。口元を押さえていた手を下ろして、恭真は彼女に向き直る。「うん、ちょっとね。楽しいことがあったんだ」浮かんだ笑みに、違和感は感じられない。二人はそのまま、取り留めのない談笑を交わして、また別れた。恭真が去った後、花鳥は浮かべていた愛想笑いを消し去る。
彼の噂は聞いていた。裏社会では、あまりに有名なその名前。名門冷泉家、現当主。そして、絶対者。その肩書きだけで、大多数の人間が彼に跪くだろう。そして、恭真自身もそれを当然のこととして受け止める。
「…どうして、ここに来たのかしらね」次期花鳥家組長としての立場があるから、いくら裏の人間だとしても、彼に跪くことは要求されない。学校という場面であるから、普通に会話も出来た。けれど、次はどうなるかわからない。
恭真の歩き去った仄暗い階段を見下ろして、花鳥は無意識に右手を握り締めていた。



食堂で昼ごはんとして大盛りの丼をかき込んでいた平城の視線の先に、恭真が空いた席に座ったところが見えた。彼と比べると些か心もとない量に見えてしまう和風定食を、食堂には似つかわしくない上品な手つきで口にしていく。だが、一口食べてすぐ、僅かに眉を顰めた。そして、たっぷりと時間をかけてそれを飲み込み、箸を置いた。それから、一口も口を付けようとしない。困ったように定食を見つめていたが、不意に前に座る平城に気がつき立ち上がって、彼の元に歩いてきた。
「……なにか、」若干、無愛想な口調になってしまったのは仕方のないことだと思う。そんな平城の様子も気に留めず、恭真は苦笑しながら、彼の前に自分の注文した定食を差し出した。
「……?」「平城君、君、大食漢なんだって?沙弥ちゃんに聞いたよ。…よかったら、これ、食べてくれない?」「…はい?」「大丈夫、一口しか手をつけていないから。そこはちゃんと捨てるし…」「…食べないんですか?」「…食べられなくてね。ジャンクフードは大丈夫だったから、いけると思ったんだけど…」恭真は、生まれた時から、口にするものは常に最高級の品々ばかりだった。それに舌が慣れきっていて、いくら他の学校と比べて豪華とはいえ、学食のメニューは到底食べられたものではなかった。
「…いいですよ」色々と複雑な心境はあったが、彼の持つ和風定食は空きっ腹には酷く魅力的かつ美味しそうに映る。その誘惑に負けて、結局、その定食を受け取った。
「ありがとう」そう言って、恭真が笑う。その微笑みは、以前と違い、作られたようなものではなく、能面を見ている感覚には陥ることはなかった。
それでも。「…本当に、よく食べるねぇ」本物に見えるその笑みにすら、消えない違和感は残ったままだった。