それでも世界は進む




「おはよう、沙弥ちゃん」
「……」


なんでいる。そう思った田村沙弥に罪はないことだろう。
あの事件から数日経ち、怪我を負った者も大体が回復し、登校できるようになった頃、普通に登校し、遅刻寸前に教室に入れば、冷泉恭真がいた。
しかも、何事もなかったかのように挨拶をしてきた。もう一度問おう、なんでいる。


「え?ここの教師だから?」
「ナチュラルに心読まれた!じゃなくて、え、え?」


しかも、最初のように、にこにこと読めない笑みを浮かべている。彼の本性を知った今となっては、かなり警戒態勢に入る笑みだが、彼はそんなことを気にした様子もなく、「はい、遅刻するよ、早く座ってね」とだけ告げる。
わけがわからなかった。先に来て、座っている数人も複雑そうな…若干名心底嫌そうな顔をしているが、それ以外は、いつも通りである。
いつもと変わらない、朝だった。








「沙ー弥ちゃん、」
「…なんですか?」

休み時間、絶対に離さないとばかりに傍に張り付き、番犬のように恭真を睨みつける平城にさらりと笑みを返して、傍に近寄った。
今にも噛み付きそうな平城の頭を撫で、沙弥に顔を近づけて、ニコリと微笑んだ。


「…ごめんね?」
「……はい?」
「さすがにやり過ぎだって、紫苑に怒られたよ。だから、ごめんね」


まさかの、謝罪。それに、教室中がポカンとなった。ありえない言葉を聞いたとばかりに、呆然としている。

「それから、ありがとうね」

その上、次は感謝の言葉だ。思わず、警戒していた平城も口を開けて恭真を見つめている。しばらくそうして見つめていたが、不意に、平城の視線が怒りを孕んだものに変わる。沙弥を自分の後ろに隠して、下から思い切り睨みつける。


「…ふざけるな」
「ちょ…平城、ストップ!」
「何なんだよ、あれだけのことしておいて、今さら謝罪?それで許せって?舐めるのも大概に…!」


「誰が許せ、なんて言った?」


それを制して、一瞬、恭真の表情が能面のように色を消す。だが、それは一瞬のことで、すぐに笑みを貼り付け、またにこりと微笑み直した。
酷く不気味で極端な表情の変化であったが、それに何かを感じる前に、彼の手が平城の顎に添えられ、そっと持ち上げられた。拒もうにも、身体が支配されたように、動かない。


「それで許す、なんて言ってたら、俺がお前を殺してやるよ?許さなくていいし、許すな。それで俺を許すお前になんか、興味ないね」
「っ…、何なんだよ…じゃあ何をしに…」
「悪かった、って思ったから、謝罪に。悪いことをしたら謝るものでしょ?」


なんて気味の悪い人間だろうと改めて思った。
あれだけの凶行を平気でするくせに、妙なところで律儀であり、常識を持っている。
表情だってコロコロと変わる。笑みを浮かべていたかと思えば、一瞬で無表情になったり、そこにまた笑みを貼り付けたり。無邪気なのか大人びているのかわからない。その上、口調すら定まらない。とても薄気味悪かった。


「それと、お詫びに面白いものを見せてあげようと思って」


そう言って、平城から手を離す。ばっと距離を取って沙弥を庇う平城に、「そんなに怯えないでよ、もう何もしないから」とくすくす笑って、スーツから拳銃を取り出した。
そして、自分の頭にその銃口を押し付ける。誰かが制する暇もなく、その引き金を引いた。「っ…!?」耳をつんざく銃声が響く。倒れこむ恭真の死体を想像して、思わず目を瞑ると、くつくつと喉で笑う声が響いた。


「ふふ…びっくりした?」
「な…、なんで、生きて…」
「ほら、見てみなよ」


そう言って、先ほどの自殺未遂に使用した銃を投げ渡す。中を見てみれば…奥で、弾が詰まっていた。言葉を失う。こんな偶然が、あるのだろうかと。しかも、それを予測した上で彼は引き金を引いていた。
拳銃を返すと、それを受け取り、ゆったりとした口調で話し始めた。


「僕はね、死ねないんだ」
「……」
「偶然というやつに絶対的に庇護されていてね…だから、君と戦った時、近寄れなかっただろう?」
「…あの時、確かに、傍にさえ寄れなかった」
「それはね、君が、僕を殺せると判断されたから」
「……」
「偶然は僕を庇護してる、誰にも殺されないように…でも、勝利を約束してるわけじゃない」


君は、僕を殺せたんだよ。
そう言って、にこりと笑った。どこか歪で、異常で、歪んだ、それでいて寂しそうな笑みだった。


「本当は、君が英雄になってくれるかと期待してたんだけど、止めた」
「僕を殺せば、沙弥ちゃんが苦しむから――君は、そう言ったね」
「だから、止めるよ」
「お姫様と仲良くね、勇者さん」


にこにこと笑って、二人の髪をくしゃりと撫でた。
その手は確かに、陶器のような、作り物のような、氷のような滑らかな肌ではあれど、きちんと体温を宿した、暖かな腕だった。


「あ、ちなみにまだ、臨時講習期間終わってないから、またよろしくね」
「っ帰れ――!!!」