今よりずっと昔の話をしましょう。

原始、私は一つの林檎でありました。それを一組の男女がかじり神様の国から追放されました。寂しがりやの神様は男女の代わりに私を女に、蛇を男に変える事で心の隙間を満たそうとしたのです。しかし私は二人にかじられたせいで大切な何かが欠けていましたし、蛇は冷たく赤い眼で多くを語る事はありませんでした。神様はいつまでも孤独で、孤独を埋める為に生まれたはずの私達は満たされぬままです。
私は自分の欠けが何なのかよく分かりません。神様はそれで良いと言うのですが、私はいつまでも空虚にもどかしく過ごす事を良しとしませんでした。
私は人間にかじられたのです。私の欠片はきっと人間が持っているに違いないのです。私は人間に近付いてみることにしました。


人間に近付いて気付いた事があります。一つは、私の姿形がとても美しいという事です。一番最初に近付いた男は口々に私を誉めそやし、貴重な宝石で私を飾りました。男は一国の主でありましたが、私に傾倒するあまり政を疎かにしていたようです。そうして一つの国は潰れ、男は処刑台で首を跳ねられました。
次に出会ったのは双子の男です。彼等は端麗な容姿の持ち主でしたが、同じ顔をもつもう一人を疎ましく思っておりました。私が近付いて程なくして二人は殺し合いを始め、やがてどちらも息を止めました。
その次に出会った男は家族を持っていましたが、どんどん私にのめり込むようになりました。しかしそれに気付いた妻は私を打つと鬼のような形相で私を睨みこう言いました。
「出ていきなさい、この疫病神!」
私は神様の、誰かの何かを満たす為に人となったのに、思えば沢山の人間を不幸に追いやったように思います。赤く腫れた頬は酷く痛み、左胸に刺がささったような心地です。それでも、私は人と関わるのを止める事はありませんでした。
蛇は私に問います。

「どうして、あんたは人と関わるんだ。傷付くだけだ」

赤い瞳は燃えるような色なのに冷たく凍っています。
しかし私には答えがありません。黙っている私に蛇は付け足します。

「俺達は毒になっても薬にはならない」

なぜかは知りません。蛇の言葉は頭の中にずっしりと重く沈みました。
そしてどれだけの季節が過ぎたでしょうか。私は近付いては先立たれる事を何度も繰り返しました。ある人は私を女神と呼び、またある人は悪女と呼びます。私は私が何かわからないまま、もう何度目かわからない秋を過ごしていました。
その日はとても天気がよく、辺りには甘い香りが充満しておりました。金木犀の香りに気分を良くしていた私が白い建物の近くをぼんやり歩いていると、後ろから低く少しだけしわがれた声が聞こえてきました。

「……月子?」

私は一つの林檎です。
勿論名前などある訳がないのですが、その声が何と無く気になったので振り返ってみると、腰を曲げた老人が一人立っているのでした。

「月子、なのか?」

私は一つの林檎です。月子ではないのですが、老人の目は海のような青色を湛えていました。赤い私とは相対のその色を気に入った私は気まぐれに返事をしてみる事にしたのです。

「なあに」

すると老人はその皺だらけの顔を更に皺くちゃにして微笑みました。これが私と老人との出会いです。
その日から私は老人が居る近くの病院に通うようになりました。
老人は私を見る度に私を月子と呼んで笑います。髪を撫で、俺と似た色だなと嬉しそうに言います。今ではすっかり白く染まった彼の髪も、若い頃はきっと美しい茶色だったのでしょう。
私が訪れる度、老人の幼なじみが撮ったのだという写真を広げては、昔話をします。写真に映る少女は確かに私とそっくりで、老人は一つ一つ、思い出を愛おしむように語ります。優しい声色で紡がれるそれはまるで童話のようで、月子はきっと老人のお姫様なのだと思いました。
月子、一文字ずつ慈しむように老人は私を呼びます。そんな風に呼ばれた事のない私は、どうして胸が熱くなるのかがわかりませんでした。私は月子ではないのに、月子になったような気になっていたのです。

私が一つの林檎から月子になってから、幾らか時が過ぎました。老人は相変わらず嬉しそうに私を呼びましたが、その顔がどんどん窶れていくのがわかります。私は長い時をこのまま過ごせますが、人間はそうではないのです。私はその事をすっかり失念していました。それくらい、老人と過ごした時間は優しく穏やかだったのです。
私は腕を管に繋がれた老人の傍らに座っていました。余り長くはないだろうというのは長い時を生きた私には簡単にわかりました。
老人は私の手を握り、もう動かすのも辛いだろう顔の筋肉を動かして懸命に笑います。

「なあ、月子」
「なんですか」
「俺の名前を、呼んでくれないか」

そこで私は固まってしまいました。私は月子とその幼なじみ、哉太と羊の名前は知っているのに老人の名前だけは知りませんでした。老人はきっと私を月子だと思っています。私も、せめて老人が息絶えるまでは月子でいたいと思っていました。今まで人間の死を黙って見てきた私が何の心変わりか、この老人にはどうしても夢をみさせてやりたかったのです。あんなに、愛おしそうに月子を呼ぶ老人に今此処で現実を突き付けるのは今まで見てきた何よりも惨たらしい事のように思えました。それでも私は老人の名前を呼びたいと思ったのです。

「……ごめんなさい」
「どうしたんだ」
「私、月子じゃないんです」

そう告げると、老人は私の手を握る力を少しだけ強くしました。

「ああ、知っていたよ」

また優しく、月子と呼ぶ時と同じ笑顔を浮かべます。私はその笑顔を好ましいと思っていたはずなのに、今は笑って欲しくないと思っています。

「本当は知ってたんだ。月子がもういない事、俺の手の届かない場所に行った事も全部。
でも俺は忘れたつもりでいて、いつまでも未練がましく引きずってた。そんな時現れた君が月子に似ていて、あんまり優しいから甘えてしまった。ごめんな」

優しいなんて一度も言われた事がありませんでした。私は毒になっても薬にはならないのです。皆蜜と艶やかな赤に惹かれてはやって来て死んでいきます。この老人も、やがては死ぬのです。私の傍で、赤い嘘に騙されていた事実に打ちひしがれて。

「ごめんなさいは、私の方です。私、貴方を殺します。私は、毒にはなっても薬にはなりません」
「……笑って」

老人は私の頬を痩せ細った指で撫でました。

「毒なんかじゃない、薬でもない。確かに俺は君に幸せを貰っていた。仮初めでも、君の優しさが俺を生かしたんだ」
「それは、ほんとう?」
「本当だよ」

得体の知れないものが沸き上がっていくのが感じられました。何故か視界がぼやけて老人の顔がよく見えません。

「……貴方、名前は?」
「錫也」
「……すずや。ありがとう、沢山ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」


世界が春を迎えたその日、老人は静かに息を引き取りました。白いベッドの上には一つ、赤い林檎が転がっています。
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