手負いの獣


 ただ此処にいればいい。彼はそう言って私を自身の私室に置いた。私もそれは願ってもない幸せなことだったので一も二もなく了承し、今は彼の広い私室で暮らしている。
 今まで愛していたかもしれない恋人も、美味しく頂かれていたであろう花娘たちも、誰ひとりとして彼の私室で夜を越えたことはないという。腹心の男曰く、私は唯一彼の私室で夜を越え、朝を迎えることを許された人間であるらしかった。腹心の彼は「アンタ愛されてんだなぁ」とわらった。だから私も「それは嬉しいです」と答えた。

 ベッドなのか、それとも布で拵えた小さな舞台なのか。世間どころか世界を知らない私には分からない。枕があるからおそらく前者であろうことは分かっている。白い絹のシーツの上でまるで囚われのお姫様のように座る私と、私の膝を子供のように独占し、腹に顔を埋めた男がひとり。そして私は子供のような大きな男の少し固めの黒髪をゆるゆると撫でている。
 なんとなしに、ふと頭に浮かんだ子守唄を小さく、本当に小さく、口ずさむ。それは私のわるい癖だった。歌いたいからではない。膝を占拠する男を子供扱いしているわけでもない。鼻歌や歌を口ずさむことの多い人間は、そうすることで無意識的に「鼻歌を思わず歌う私は幼いから甘くみてほしい」という自己愛の強い人間であると以前どこかで聞いたことがあったが、そういうわけではない。ただの、気まぐれ。

「――何の歌だ」
「……ふるい、子守唄です。耳障りでしたね、申し訳ありません」
「いや、止めるな。続けろ」

 頼む。らしくもなく、彼はそう言って額を私の腹へ押し付けた。筋肉のついた力強い腕は私の腰をしっかりと巻き付いて離れない。しかし私とて自分から彼の拘束から脱出を試みようとは思わないのだが。
 彼はひどく寂しがりで臆病な子供だと思う。愛情に飢えて飢えすぎて、彼の思う愛情は世間一般から歪んでしまったのだろう、とも。まるで手負いの獣のよう。近付けば鋭い牙で威嚇する。それでも近付いて優しく撫でてやれば大人しくされるが儘。そんな、手負いの獣のようだと思う。
 私は愚かな女だ。彼は私を歪んだ聖母像にしているのに気付いても尚、気付かないふりをしてこの部屋で暮らしているのだから。

「――いつかお前も俺を、捨てるのか」

お前も、

「何を申されましょう。私はザンザス様を捨てるくらいなら、その場で舌を噛み切って自害いたします」
「母親は俺を捨てた。ガキの頃だ。父親はとんだ――裏切り者だった」
「ならば、明日からザンザス様のお傍を片時も離れぬようにしましょう。食事も執務も私がお傍にいますから」

 腹に額を押し付ける男の髪に指を差し入れれば、縋るように更に顔を寄せた。すん、と殺された息の音は幼子のよう。
人を殺める暗殺部隊の長であるはずの彼の様子に抱いた気持ちは愛しいであるのだから、私は彼に懐柔されてしまったのだろう。彼は、寂しくて不安なのだ。
 強いのに今は小さく見える彼を受け止める。腹部に滲んだ何かが生温かい。

「疲れているのでしょう。私がずっと傍におりますから、おやすみください」

 次第に重くなり始めた身体。寝息が聞こえたことに安心する。どうか、目覚めた彼が一時でも全てを、忘れてしまっていますように。彼の頭を撫でて、目を閉じた。


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