醜いモナリザ
ぱきん、と小気味のよい割れる音がした。それから舌打ち、次いでがりがりぷつぷつと削る音も。ああ、×××の爪がまた一段と短くなった。そして周辺の肉も噛みちぎっているのだろう。呆れ、そして泥濘に沈むような感情が、ボルサリーノの腹にわいた。
「あんまり咬むと、また血が出るよォ〜」
彼の声は聞こえていない。勿論、聴覚には届いている。感覚神経を通じ脳で処理されたとしても、×××のなかに留まることはない。もう何度も同じ言葉を掛けているのにも関わらず一向に聞く気配のないその様子に、ボルサリーノは反抗期の娘をもつ父親の心境が理解できる気がした。
過去に一度、返答されたこともある。×××がボルサリーノのところへ配属されて間もない頃だ。そのときも、華奢な指のどれもが歪で汚い形をしていた。
爪の生え際は血が滲み、肉は醜く抉れている。それを見、中年男であるはずの自分の方がうんと整った形だと思った。
「そんなに咬むと、血が出るんじゃないの」
「そういうときもあります」
「痛くないのかァい」
「痛くないと言えば嘘になります」
「わっしは、女の子はみんな綺麗な手をしてるもんだと思ったけどねェ〜」
「――ほっといてください」
ぴしゃりとまではいかないが、これ以上聞いてくれるなという拒絶の色を返したのはこれきりだ。
だからこそ、ボルサリーノに×××の醜い指先のことを印象づけたのかもしれない。次の休日、ボルサリーノは流行色のマニキュアとネイルチップを購入した。
帰還したのは、×××の左腕だけだった。×××と彫られた棺が小さいのはそのせいである。果敢にも市民を庇い、その左腕だけのこして吹っ飛ばされたらしい。ボルサリーノは色つきの眼鏡の奥で目を細めた。優秀な娘だったのに。
彼女の棺を抱えて下船した海兵は、キャップを下げた。彼は×××の同期だった。
「大将、×××から言伝を頼まれております」
「何て」
「『もう、ほっといてください』と」
「――しばらく、二人にしてくれるかァい」
「失礼します」
安置所の扉が閉じる音を耳に入れ、小さな棺を開ける。
そこには血の気のない白い腕が平臥していた。火傷の痕があれどしなやかに肉のついた曲線の先は、案の定ひどい深爪で肉は酷く抉れている。間違うことなく、×××の左腕だった。手のかたちは白く美しかったのに、指先の醜悪さだけが心残りの。
ボルサリーノはポケットに入れていた物を取り出した。いつかに購入したままのマニキュアとネイルチップ。中年の男がもつととても不釣り合いだ。
「咬むのをやめたら、渡そうと思ってたんだけどねェ〜」
本心であり、父親心からくる独り言だ。
歪な×××のその爪にチップと色を施すことにした。ボルサリーノは正しいやり方は知らない。とりあえず付属していた両面テープでチップをちまちま貼ってやると、×××の指先が醜さを隠した。こころもちはみ出してしまったが、ハケでその爪を塗ってやった。色ムラが出来てしまったが、絵心に自信がないので仕方がない。余ってしまった右手分のネイルチップにも色を塗り、棺の中に入れた。塗料が乾くのを待ちながら、色を塗ってからチップを貼ればよかったと、終わってから気付いた。
全てが終わってから、気が付いた。
爪を咬む癖というのはなかなか治らない。ボルサリーノはそれをよく理解している。
この習癖は精神性的発達理論に於ける口唇期に起因する。発達過程に於いて固着が生じ――たとえば、幼児期の両親からの躾が極端に厳格すぎたとか甘やかされたとか、どちらにせよ愛情を求めるような――心理特性が大人になっても色濃く残っている場合、甘えたい気持ちが強く依存的な傾向にある。若しくは、今、その感情を抑制している、とか。
×××は後者だった。厳しく教育を施すも、聞き分けのよい娘だった。だからこそ、優秀な部下の一人だった。
今ではもう遅すぎるが、×××を愛してやればよかったと。
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