哀傷ニムバス


 生い茂る深緑の上と澄んだ青に湧いた積乱雲に、もうすぐ雨が降るから早く帰らなくちゃあいけないなと誰かが透明な声で囁いた。その誰かの声に蓋をして、私は庭に咲き乱れる向日葵を眺め続ける。
 薄いサンダル越しのちりちりと砂が鳴らす痛みが、足の裏から体を巡る。
遠目に見えたその白が次第に濁り濁って灰色、濃灰色、最終的に重たく黒濁して頭上に覆い被さり、やがては青を侵食した。日焼けしないようにと被せられた麦わら帽子はいらない。黒濁が喧しい黄金の円陣を塗り潰してしまったから。早く家に入ろう、透明な声がまた囁いて聞こえなくなってしまった。
 ひたり、ひた。ひた、ひた、ひたん。誰かが涙を零したのかと思った途端に、黒濁りした積乱雲がやかましく嗚咽を吐き出した。吐き出されたそれのせいでぐしゃぐしゃに濡れた地面は、私の体重で沈む。爪先から踵をひやりとした舌で包むように、汚してゆく。
 そのまま立ち尽くしていれば、舌で包むだけの地面は足首をも食んでいる。砂泥が絡みつき、私を呼び込もうとするようだ。
「×××!」
 スピードワゴンが慌ててこちらに駆けてきた。彼は優しくてあたたかい。兄が忙しくて帰ってこれないかわりに、彼は私のことをみてくれているのだ。兄とエリナお義姉さんも大切な家族だが、彼もまた私の大切な家族に違いなかった。
「そんなずぶ濡れで!風邪をひいたらエリナさんに怒られちまう」
 スピードワゴンは砂泥に捕らわれた私をすくいあげて、黒濁した積乱雲から大きな傘と彼の上着で私を隠してくれた。
 しがみついた彼から伝わるあたたかな熱は、ぐしゃぐしゃになった私を溶かしてくれる。
「どうしたんで?」
「おうち、かえろう」
「ええ」
 子供をあやすように私の背中を撫でる大きな手が、未だ帰らない兄と重なる。兄とは違うあたたかさが心地よくて、私を抱き上げる彼の首元にぎゅっとしがみついた。
「スピードワゴン」
「なんでしょう?」
「ジョナサンはいつおうちにかえってくるの?」
「…ジョースターさんはまだ忙しいみたいで… ×××はいい子だから待っていられるよな」
「…うん」
 頬を寄せた彼の肩口と傘との隙間からだくだくと濁った積乱雲がちらりと見えたが、雲がおひさまを隠したように、傘が濁った雲を隠してしまった。

 しとりと濡れてしまった私を迎えてくれたのは、エリナお義姉さんだ。「×××はやっぱり庭にいたのね」と白いふかふかのタオルを広げている。スピードワゴンにも同じものを。まばゆい太陽をしっかりと浴びてゆるやかなあたたかさを保ち、タオルのぬくもりから一度途絶えてしまった透明な声が寒くはないかいと囁いた。
 透明な声が聞こえたのか聞こえないのか、私の濡れた髪をエリナお義姉さんは拭きながら、同時に怒ったような泣いたような、苦笑しているような悲しいような難しい顔をする。兄の次に大好きなエリナお義姉さんにそんな顔をさせるのは本意ではない。小さく謝罪の言葉を口にする。
「ごめんなさいよりも、もっと大事なことがあるでしょう?」
「…エリナお義姉さん、スピードワゴン、しんぱいかけてごめんなさい。ありがとう、だいすきよ」
「気にしないでくだせえ、おれも×××が大好きだ」
 素直に謝り礼を伝えると、スピードワゴンが屈んで私の頬を撫でた。そのスピードワゴンの顔もエリナお義姉さんと同じ難しいかおをしている。怒ったような泣いたような、苦笑しているような悲しいような、難しいかおを。
「ジョナサンに、おてがみかいてね。エリナお義姉さんといい子でおるすばんしてるって、だから早くかえってきてねって」
 私の言葉に勿論だと笑んだスピードワゴンの背後から見える空は、未だ黒濁りした積乱雲に支配されている。


企画:ゆめうつつ


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