Tsay .
拝啓 忍足侑士様あなたがこの手紙を読むことはないだろうけど、書き留めておかないといけない気がしました。「学校のバラ園が今年もぎょーさん咲いとったで。」
「そや、今日跡部がな…」
いくら話しかけても目の前の彼女から返事が帰ってくることはない。杏里は言葉も忘れてしもた。
もう俺の話を理解できてもいないやろうけど、杏里がおるかぎり言葉を掛け続けるんや
側にいてほしいと、最後に最大の我が儘を言ってごめんなさい。きっとその事も忘れてしまうのにね。今、侑士の顔を思い出すのもやっとなの。俺の目の前におるのに、大好きな長い髪も繋いだ手も口づけた唇も、よう出来た人形さんみたいや
ただ侑士といられるだけで幸せだった。特別な事なんていらなかった。あんなに鮮明に描けた侑士との未来が何も見えないの。杏里の言葉が消え始めた頃親父は"もう来るな"と言った。
せやけど約束なんや、と聞き入れん俺に"杏里ちゃんは、その約束だって覚えてへんのや。お前が破ったって誰も責めん。"と顔を歪めた。
"杏里があなたの事を誰?ってたずねるのが何よりも辛いの"
"侑士くんも杏里の事は忘れて欲しい。"
そう言って頭を下げた杏里の両親。
何もかも忘れてしまう私なんかより侑士が辛い思いをするのはわかりきっているのに、重荷になる事しかできない私を責めて下さい。皆がとらわれ続ける俺を思ってくれてるのは痛いほどわかっとる。
けど、離れられないのは俺のほうなんや。
春になったら桜を見に行こうって 夏になったら海へ行こうって 秋には少し遠出して 冬は寄り添って寒いねって笑うはずだったけど、どれも叶わなくなっちゃったね。一年以上続いた俺の日課が変わることはあらへん。
相変わらず岳人には付き合い悪い言われとるし、跡部は何や気がついてるみたいやけど何か言ってくるわけでもあらへんし…
まぁそれで助かっとる。
「杏里、今日は天気ええから外に行こか?桜、綺麗やで。」
もちろん返事はあらへんけど、ゆっくりと瞬きをしたのを勝手に肯定ととる
彼女を抱き上げると驚くほど軽くて今にも消えてしまうかと感じるけど、伝わる体温が存在を示しとることに息が漏れる。
先生が言ってた。最後には話すことも食べることも忘れちゃうんだって。だから私、それを悲しいと思うことすら忘れてしまってるなら何ともないかもしれないですねって言ったら、困らせちゃっみたい。これからたくさんの人にあんな顔させちゃうんだろうな……杏里を乗せた車椅子を押して中庭に出ると桜がよう見える位置で足を止める。
「今年も2人で見れたなぁ…」
それ程広くはない中庭に花の香りが広がっとって、いつもの鼻につく消毒液の匂いをかき消してる
なんや、いつかの昼休みみたいやなぁ
"侑士侑士、今日は外でお弁当たべよう!桜咲いたからレジャーシート持ってきた!"
本当はもっともっと伝えたいことがあった筈なのに、それも思い出せなくって嫌になっちゃうわ。侑士は優しいから私との約束を守ってくれてるんだろうな。 こうしてると俺らは何も変わってへんみたいや……
なぁ杏里見えてる?
俺の声は聞こえとる?
一際強く吹いた風が花びらを散らして
杏里までも連れ去ってしまいそうで
思わず抱きしめてしもた
車椅子が倒れた音が遠くに聞こえよる
ねぇ侑士、何もない未来しか私にはないけれど、杏里って呼んでくれる?こない風なんかで消えてまう訳なんてないのに
抱きしめた腕を緩められへんのは俺の体温すら忘れて欲しくないからやのうて、俺が杏里を忘れとぅないから……
「ちゃんと聞こえとるよ、杏里。」
胸に伝わる鼓動が侑士って呼んどる気がしたんや
言葉を忘れてしまったら、 呼吸で 瞬きで 心音でだって 侑士って呼ぶから ちゃんと聞き取ってね?きっとただの反射や
体の支えがなくなったからや
わかってる筈やのに、背中に回された腕が愛おしい
まるで体は俺を覚えとるみたいで。
なぁ神様
ほんまにおるんやったら、もう少しだけ俺らに時間くれへんか?他のもんは何だって差し出す。せやから頼むわ。
もし神様がいるのなら、どうして私なの?なんて言わないから、一秒でも早く私から侑士を消さないで欲しいの。
ねぇ侑士。どんな形だって最期まで伝えるからどこにいても感じてね。<Tsay .>愛してる
敬具
七瀬 杏里end
天野月子さん「Hello」をテーマにさせて頂きました。
上手く表現できているかはわかりませんが…
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[mokuji]
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