昔。そう、あれはもう10年以上前の話だ。
私は母親に怒られるようなことをして、一晩家から締め出されたことがあった。もしもの為に、と護身術を習ってはいたので命の危険などは感じなかったが、それでもとても怖かったことを覚えている。なんせ、当時の私はまだ10歳にもなっていなかったのだから。
夜闇の中、外にいるのが怖かった。それを紛らわすように私はどこへ行くともなしに歩いた。足が棒のように感じられても歩き続けた。
その内私は、とても大きな建物の前に着いた。その大きな建物は、煌帝国で1番偉い人が住んでいるのだと母親から聞いたことがあった。
ここには、入れない。私は幼心にもそれを理解して、くるりと踵を返した。
私はまた歩き始めた。そして大きな建物から少し離れた時、私は小さな声を聞いた。
「こんな時間に何してるの?」
「え?」
その声は、私に話し掛けていた。振り返ると私と大して歳の変わらなそうな人がいて、驚いて目を瞬いた。
「聞こえなかったの? 僕の質問に答えてよ」
「え、えと、お母さんに怒られて…家から追い出されちゃったの」
「ふーん…」
夜闇に慣れた目に、薄い赤をした髪が映る。私とほとんど同じ、少し私より小さい背丈の男の子。
その姿をはっきりと目にした途端、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。張り詰めていた神経が、歳の近い人間を認めて一気に緩んだようだった。
「? なんで泣いてるの?」
「ひとりが…怖い…っ」
「……よしよし」
うぇーん、と本格的に泣き出した私を、彼はぽんぽんと頭を撫でてくれた。落ち着いた後もその日は、夜が明けるまでずっと一緒に居てくれた。
「あのね、わたしね、なまえっていうの」
「ふーん、なまえね」
「あなたは?」
「…ないしょ」
「えー、ずるいー!」
この時彼が名前を教えてくれなかった理由を、私はそれから数年後に漸く知ることになる。練紅覇。それが彼の名前だった。
煌帝国第三皇子の肩書きと共に彼の容姿を初めて知ったのは、私が15の歳の誕生日のこと。実に七年が過ぎてからのことだった。
そうか、だから名前を教えてくれなかったんだ。
すとん、と胸に入り込んだその理由は、つまり私の気持ちが叶わないことを示していた。
四年程前からだったか、私の夢にしょっちゅうあの日の男の子の姿が出て来るようになった。初めの方は何とも思わなかったのに、いつからか私はその夢を見ることを楽しみにしていた。
ちょうど、私の女友達が恋だの好きな人だの騒いでいた時期だった。
そうか。私はあの男の子が好きなんだ。
理解したのは、13の歳だった。
それからたった二年。私の恋は伝えるまでもなく叶わないことを知ってしまった。
裕福とはいえ、私はあくまで庶民の娘。引き換え彼は、一国の皇子だ。身分不相応にも程があった。
15の歳の誕生日、両親や友人の手前笑っていた私は、夜布団に潜り込んで泣いた。
憧れじゃなかった。本気の恋だった。本当に好きだった。
でも…叶わない。
あの男の子は誰だろう、と知りたがった時期もあった。でもこんなことなら知りたくなかった。
泣くしか、なかった。
そして、私は泣いても諦めきれない想いがあることを知った。
大きな建物…基、宮廷の前で私は立ち尽くしていた。
私は今、18歳。叶わない恋だと知ってから、更に三年が過ぎている。
もう、叶わない恋を夢見て泣くことはなかった。諦めることはどうしても出来なかったけれど、現実的に叶わないことは理解し尽くしてしまっているから。
ただ、顔が見たい。声が聞きたい。
会いたい……。
贅沢な望みだとわかっているのに、三年掛けても諦められなかった。
私を好きになって、なんて思わない。一度でいいから声が聞きたい。
自分のそんな想いに自嘲して、宮廷に背を向けた。私の身分に釣り合わない願いなんて、棄てるべきなのに。
「……なまえ?」
私の名前を呼ぶ声が、鼓膜を揺らす。記憶にあるよりも低くなった声。でも、確かに知っている。
「え……」
「やっぱりなまえじゃ〜ん! 覚えてる?」
覚えている。忘れられるものか。
だって、だって。今だってまだこんなにも大好きなんだ。
「…紅覇、様」
「あ、やっぱり知ってるんだね〜」
いつの間にか私の前に回り込んでいた彼は、ほんの少しだけ私よりも背が高くて。でも、何だか変わっていなかった。
優しい、声。優しい手。優しい表情。無邪気な笑い顔。
「また泣いてる」
よしよし、といつかのように頭を撫でられて、状況を理解出来ないままに私は泣くことしかできなかった。
確かに心が満たされていくのを感じながら。
身分不相応だってわかってる。諦めるべき恋だって知っている。
それでも後少し。後少しだけ、夢を見ていてもいいですか。
130307
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