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追憶エデン
重い、なぁ。
内村からまわってきた部日誌を書きながら、ふと思った。
崇拝にも近い彼の人に対しての尊敬は、彼にはもちろん、俺にも鉛玉に似た何かを着実に体のうちに埋め込んでいく。
彼―橘さんに対しての俺達の感情は、他校に気味が悪いと言われるほどだということは知ってるし、俺には自覚もある。
まずいよな、とは思うのだ。何かが起これば俺達はみんな橘さんを頼るし、逆に言えば、橘さんならなんとかしてくれると思ってるから、みんな好き勝手やるのだ。副部長であるはずの俺を筆頭に。
個性が強すぎるうちの部の連中は、はっきり言って橘さんにしか御せない。
そもそも俺にもストッパーが必要なのだ。それほどまだ精神的に未熟なのに、その俺が、来年には部長となって他の奴らや入って来るかも知れない一年を率いていかなければならない。
(ムリだよなぁ…)
贔屓目、というのを抜きにしても、橘さんほどいい部長はいないと思う。
優しくて、でも厳しくて、テニスも全国区。何より、俺らのことを第一に考えてくれる。
無名校の不動峰をベスト8まで導いてくれた、だいすきな、俺らの部長。
そもそも、スタートからして鮮烈だった。どん底にいた俺らを引っ張り上げて、夢だとしか思えなかった道を切り開いて、全国へ連れていってくれた。
そんな橘さんは、俺達にとって、まるでそう、神様のようだった。
実際深司なんかは、「俺の神様は橘さんだよ、」と、恥ずかしげも気負いもなく、当然のことのように言っていた。
かみさま。
聞かれてはならないと、とっさにそう思った。
それを俺が認めては、それを橘さんに聞かせてはいけない。
橘さんは、こんなことを聞いてしまったら、引退できない気がする。
いや、優しくて厳しいひとだから、俺らのこれからのために、あと一ヶ月もすれば引退してしまうだろう。
でも、絶対に枷になってしまう。
あの人はもっと上に行くべき人だ。なのに、俺たちがこんなところで縛りつけることなんて、してはいけない。
そして、何より、俺のために。
俺は、かみさまになんかなれっこないのだから。
「……あ、」
やばい、どうしよう。
怖い。
一ヶ月後には、橘さんはもういない。
たった一ヶ月後、だ。
俺はまだ、かみさまの代わりになんてなれない。覚悟も実力もカリスマも足りない、スピードしか能のない、ただの。
ただの神尾アキラでしかないのに。
「だれか、」
誰かに助けてほしくて、ケータイのアドレス帳を開く。そのまま一番上にある番号にかけようとして、
電源ボタンを押した。
だめだ。あいつには甘えてしまう。甘えてもいいとあいつはいうけど、今はそのときではない。バカでもそれくらいわかる。
再びアドレス帳を開いて、右に4回、上から6番目。
耳に宛てれば、無機質なコール音。
びっくりするくらい早い心音を数えながら待てば、やがて流れ込んでくるのは、少し低くて、よく通る、声。
まるでまわりに指示を出すためにあるような、聞きやすい声だ。
『もしもし、神尾?』
「…こんばんは、たちばなさん」
『はい、こんばんは。どうかしたのか?』
笑いを含んだような、少し軽い声。
だけどそれは、俺の話し方とか、声の違いを感じとって、リラックスさせるために声を和らげるのだと、知っている。
そんなひとなのだと、知っている。
だからこそ。
「……いえ。なんでも、ないです」
ああ、また。
増えていく、増えていく。
「すみませんでした」
一生、追いつけないと、それも知っているのに。
「失礼、します」
追う足は止められない。
『なぁ、神尾』
ケータイを、取り落としそうになった。
橘さんはいつも、話したくないという態度を見せれば、すぐに退いてくれる人だった。
そんな人だから、俺はいままで何度もそれに甘えてしまっていたのだけれど。
なんで、このタイミングで。
『…どうすればよかったんだろうな』
ためらうような息遣いのあと、いつもより少し早口で、低い声が言った。
『俺がやってきたことは、間違いだったのかもしれない』
そんなことないです。いつもなら何の迷いもなくそう言えた。
だけど、今こんなことを言われてしまったら、どうしても考えてしまう。
橘さんがいなかったら。
もし橘さんがいなかったら、全国には確実に行けなかっただろう。それでも、一年の間の理不尽な扱きに耐えて、2年になれば大会に出させてもらったりして。
あまりいいところまでは行かないだろう。どんなに頑張ったって都大会止まりだ。
それでも、悔しいけど納得もして、学校も来年こそは全国優勝を、なんて期待することもなくごく普通に結果を受け取って、そうして俺か、俺じゃない誰かが普通に部長を継いで、特に苦しむこともなく、部の代表としての役割しかないような部長をやって、そして引退していくだろう。
充実してはいないかもしれない。だけど、その方が確実に楽だった。
少なくとも、もしもの未来の俺は、こんな苦しくて苦しくて、逃げ出したくなるような思いなんてしないだろう。
うらやましい、そう少しでも感じてしまったことが、堪らなく怖かった。
「……わかりませ、ん」
『…そうか。すまなかったな、神尾。変なことを聞いて』
「いえ、大丈夫です」
『じゃあ、おやすみ』
「はい…、おやすみなさい」
ああ、結局わからないのだ。
背もたれにぐったりと背を預けながら、思う。
正解はない。俺は苦しまなくちゃいけなくて、橘さんも苦しんでいて、橘さんはかみさまなんかじゃなかった。
俺は苦しみ続けなければいけない。
こわくてこわくて仕方がないそれを、俺に与えただろう顔も知らない神様を、だけど恨む気にはならなかった。
追憶エデン
title by カカリア
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