生暖かい床に身体を強く打ち付ける衝撃で黒く沈んでいた意識が急激に浮上していく。唇から低い呻き声を漏らし瞼を押し上げると目の前は暗く鼻先に埋まった地面ならむわりと土の匂いが香る。…此処は何処…?

「…ぅ、グ…ッ!」

自分はどうしてこんな状況下に居るのだろう、そう考えようとするも気を失う前に目にした穴という穴から血を流した佳枝さんの姿に頭に浮かび空の胃が痙攣し思わず嘔吐いてしまう。咳を数度しながら上半身を起こして周りを見渡すと暗い室内は小さな小屋らしく、寝転がっていたのは土の上で窓は無く壁に白い縄のようなものがぶら下がっていた。

「此処は…」

暫く暗闇の中で目をこらしていると壁に立て掛けられた鍬や麻袋、たまに山から下りてくる熊や猪避けの網や網を張るための杭が積み重なっている事から此処は町外れにある農家の数人が共有している畑仕事の為の道具を仕舞う為の小屋だと気付いた。
ならば早く小屋から出て助けを求めないと。震える膝を叩いて叱咤し草履もなく足袋の儘前へ踏み出した瞬間、何か柔らかいものの芯のあるものを踏んでしまい小さく悲鳴を漏らしてしまった。

「うぅ…」

踏みつけた何かから小さな声が聞こえる。まさか、まさかまさかこの声は。
大分闇に慣れてきた瞳を精一杯凝らし扉を探り当てて一気に戸を開けば月明かりに照らされて私の足元に居たものが浮かび上がる。力無く横たわるその姿に私は一抹の安堵と共に初めてそのものに対する恐怖を抱いた。

「佳枝、さん」

私の足元で気を失っているのはこの数年連れ添った私が見間違える事はなく。それは確かに佳枝さんだった、しかし先程私が見た血まみれな佳枝さんではなく泥だらけで手足に所々擦り傷が出来て血が滲んでいた。
恐る恐る膝を突いて屈み込みそっと露出した腕に触れるとまだその肌には温もりが宿っていて、私は小さく息を吐き出した。佳枝さんは生きている…ならば、私を尋ねて来たあの佳枝さんは誰だったのだろう。


近くの民家に助けを呼ぼうと佳枝さんを背に抱えようとするも三味線より重い物を持たない私にとって佳枝さんは漬物石を置いた桶のようにぴくりとも動く事なく、己の非力さを悔いながら仕方なく一人で行くことにした。私や佳枝さんを此処に運んだのはあの気味が悪い佳枝さんの偽物に違いない。少し怖いけど、燐や佳枝さんが居ない今、私の屋敷を守れるのは私しか居ないのだ。

足袋を土で汚し時折砂利で転びそうになるのを何とか耐えつつ町の真ん中を走り抜ける。まだ宵の口だというのに何故だが皆の家には人の気配が無い。まるで此処に居るのは私一人だけのような気がして、やはり佳枝さんと一緒に小屋に居れば良かったと小さな後悔が生まれてくるのを無理矢理抑え付けながら漸く私の屋敷へと辿り着いた。玄関の戸は開いた儘で屋敷に帰ってから蝋に火を点けていなかった為、暗い儘の屋敷の中は派手に中を引っ掻き回されありとあらゆる物が床に放られていた。追い剥ぎにしては様子が可笑しい、犯人は何故佳枝さんそっくりに変装し血まみれの姿で私に会いに来たのだろう。
屋敷の中に人気は無く続いて町を治めている勝呂家や町全体を走り回り、明かりが点いている家を探すも何処もまるで寝静まったかのように静寂を保っている。

「どうして…!?どうして誰もいないの…!」

少々乱暴に戸を叩いても住民は出てくる様子はない。誰も居ないのか、何処の家の戸に耳を当てて見ても足音一つ聞こえやしなかった。
裸足の為砂利を踏んだ足は泥にまみれ、所々血が滲んでいる。今は雲に隠れているが月はまだ昇ったばかりだったから夜中ではない筈。神隠しのように住人だけが消えてしまった町の中をとぼとぼ歩いて佳枝さんがいる小屋へと戻っていく。
…すると、小屋の前で開け放した儘の小屋の中を見つめる人影が一つ佇んでいるのを見つけた。もしかしたら町の人かもしれない。佳枝さんが居るんだもの、きっと他の住人も一人くらい残っている筈。そう思って小走りでその人物へと近付いていくも、数歩走った所で立ち止まってしまった。
だって、小屋の前に立っていたのは。

「……あ、…あ…!」

「!…見つケた、せんせイ…」

さあっとまるで風に吹かれたかのように雲が退き、漸く顔を出した月が屋敷で私を呼び出した佳枝さんの格好をした血まみれの"何か"を照らしだしたからだった。顎や頭から雫となって地面に落ちる血に身震いし思わず後退ればぐるんと頭を捩った"何か"の濁った瞳が私を捉えた。
ざり、と草履が地面を擦り音を響かせる。"何か"が孕む雰囲気が私を後ろへ後ろへと先程来た道を戻らせていく。何となくだけど分かる、こいつは私を殺す気だ。捕まったら死ぬ、殺される。もしかしたら町の人達は既にこの人の手で…ああ、何て事!

佳枝さんを助けたい。
でも私は命を失いたくない。"何か"が一歩一歩此方に近付いて来る恐怖で頭が狂ってしまいそうになる。
誰かたすけて。
結局、私は無力で大切な人を守る力すら持ち合わせていない。常に誰かに助けを請わなければならないただの女なのだった。

「せンせい…」

「っ、燐、助けて…燐!」

この町から消えたと知っても尚、全て薙ぎ払う事の出来る彼の強い力を請いたかった。彼なら来てくれると、信じていた。
"何か"の手が私の首へと伸びてくるのを視界に収めながら私は声を張り上げて燐へと助けを求める。"何か"の背後で光る月が一瞬、青く燃えたような気がした。

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