慌ただしかった祭りも終わり父上に残暑見舞を認める頃には風鈴を鳴らす風も夕方には徐々に涼しくなってくる。コロリコロリと下駄を鳴らして団子を食べに甘味屋の暖簾を潜ると菫色の浴衣を着た見慣れた癖っ毛の男性の後ろ姿を見つけ、そちらへと近付いていく。

「こんにちは、メフィストさ……あら?そちらの方は…」

「おや、名前さん。先日は素敵な反物の紹介を有難う御座いました。こちら私の愚弟です。アマイモン、彼女に挨拶を」

「……アマイモンです」

彼の向かいには珍しく人が座っておりその緑色の髪はメフィストさんの特徴的な癖っ毛に勝るとも劣らず。頭頂部が富士山のように尖っている其処へと思わず目が行ってしまう。最近の町民達の間で髷を固める油として流行っている白蝋でも塗って固めているのだろうか?
ふとメフィストさんの弟だと紹介を受けた相手に視線を向けると、私を真っ直ぐ見上げてくる濃い隈に縁取られた瞳に何故かぞくりと背筋に冷水を浴びせられたような気分になる。声すら奪われたような気分になって…おかしい、今は夏なのにどうして私の手はこんなに震えているの?

「いつも、兄上から、御話を、伺っています」

「っ、こらアマイモン。そんなに見つめるな…彼女が怖がっている」

くるりと振り向いたメフィストさんが私の顔を見るなり慌てて立ち上がり、氷のように血の気が引き冷えきった私の指先を優しく包みながらアマイモンと名乗った弟さんを睨み付ける。私の背中をそっと撫でて先程まで自分が座っていた席に座らせてくれた。ぐっと近くなったアマイモンさんの視線に生きた心地がしなかったものの、初対面の方に粗相をしてはならないと硬直して動かない唇を必死に動かして漸く私は自分の名を告げる事が出来たのだった。


「あーら!どうしたんだい、そんなに息を切らせて」

「よ、佳枝さん…!」

「名前、土産は?ちゃんと買ってきたよな?」

あれからどうやって帰って来たのか分からない。気付けば私は息を切らしながら自分の屋敷の前に立っていた。項や背中が汗だらけになって乱れた髪が首に張り付いて気持ちが悪い。
私の顔を見て眉を顰める佳枝さんと奥から土産を期待して顔を覗かせる燐の顔を見て、言葉も口に出来ない位にふうふうと唇から漏れていた呼吸が漸く落ち着きを取り戻していく。

「佳枝さん、洗濯用の盥でいいから水を…汗を拭いたいの」

「あ、ああ。今用意するよ」

「燐、これお土産…水羊羹…」

「どーした?すっげぇ汗、んなに暑かったか?」

早く着替えて来い、と水羊羹の箱を奪われ燐に背中を押される。がくがくと震える膝を押さえながらなんとか浴室へと入り浴衣の帯を解いていく。何だったのだろう、どうして私は彼に畏怖する?
何だか言葉に出来ない不安がもやりと胸中に広がっていく。アマイモンさん、彼がこの町に降り立った事により私の日常が崩れるような気がした。馬鹿馬鹿しい、初対面だというのに何て失礼な事を。

「次会う時…謝らなくては、ね」

そう呟く自分の声すら震えていて、浴衣を脱ぎ捨てた儘浴室に置かれた簀の上に座り込み檜の浴槽に鼻先を寄せて目を閉じる。私は佳枝さんが水と手拭いを持って来る足音にすら気付かず暫くその体制の儘じっとしていた。


「で?何があったんだよ」

「…え?」

燐が作った夕飯を三人で食べていると沢庵をぽり、と噛み切った燐が私へと目を向けてくる。味噌汁の椀を置いて首を傾ける私に箸を振りながら罰が悪そうにあー、と言葉を濁す燐に佳枝さんが行儀が悪いと箸を持つ手を軽く叩いた。

「いてっ。…甘味屋行ってる間に何があったんだよ。あんな顔色悪い名前見たの初めてだ」

「…甘味屋で、メフィストさんの弟に会って…」

「へえぇ…あの御方弟がいんのかい」

はふう、と息を吐き出して冷たかった指先を見つめるも今はいつもの通り夏の暑さによって熱を孕んでいる。甘味屋が涼しすぎたのだろうか?
ほうれん草のお浸しを食べていた佳枝さんが箸を置いて驚いたように口元を押さえる。私もメフィストさんに弟が居たなんて知らなかった、似ているのはあの隈が浮かんだ目元だけ…。

ふと言い出しっぺの燐へと目を向けると彼はご飯がよそわれた茶碗を持った儘、お膳へと目を落とし難しい事を考えているかのような険しい表情を浮かべていた。何かを悟ったような、でも躊躇っているような。
そして唐突に彼は茶碗と箸を置いて立ち上がり肌身離さず手元に置いていた刀を帯に差してまだ食べ途中の膳を持ち上げる。

「え?ちょっと、燐…?」

「すまん!俺今日はちょっと帰る!!」

「はぁ?ちょ、膳を持って行く理由は何なんだい!」

「悪ィ、後で洗って返す!」

いきなり帰ると言い出しばたばたと玄関へと足音を立てて走って行く燐に行儀が悪いと咎めるのを忘れ佳枝さんと二人で玄関へと向かう。何か急ぎの用があるらしいがご飯は食べたいらしく膳を持った儘くたびれた草履を引っ掛け走り去って行く燐の背中を見て、私はアマイモンさんを見た時に感じた言い様のない不安がせりあがってくる感覚を覚えたまらず隣にいる佳枝さんに抱き付いた。

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