私達人間に機嫌というものがあるように、三味線にも同じように機嫌というものがある。指に走るぴりりとした痛みに思わず眉間に皺が寄ってしまう。いきなり止まってしまった演奏に部屋の隅で洗濯物を畳んでいた佳枝さんがその手を止めて私へと視線を向ける。
つうと指を伝った液体が床に垂れてしまう前に三味線を腕に抱いてもう片方の手で傷口を押さえる。

「大丈夫かい?今薬を持ってくるから待ってておくれよ」

すっと立ち上がり救急箱を取りに廊下を走って行く佳枝さんの足音を聞きながら私は小さく溜め息を吐いた。三味線がこうやって機嫌を損ねてしまうのはよくあり、私はその度指の切り傷を作っては佳枝さんに薬を塗ってもらっていた。私の奏で方が悪いのか、直接指で触れられるのが嫌なのか、まるで拗ねた猫のようにツンとした三味線に思わず口元に苦笑いを浮かべてしまう。

「困ったねぇ。塗り薬が切れちまったみたいだ」

救急箱から取り出した塗り薬の入った容器を覗いた佳枝さんが溜め息を吐く。塗り薬は先月買い足したばかりなのだが顔、腕、膝と毎日何処かしらを怪我するやんちゃ盛りな燐のお陰で此処数日は毎日のように塗り薬を与えていたせいだろう。薬代をお給金から引くことを決意しつつ私は簡単に清潔な布で指を覆ってもらい家事で忙しい佳枝さんの代わりに薬を買いに夕方の町中へと出て言った。
日暮れが近くても町民達がせっせと仕事に打ち込むのは近く行われる夏祭りに出店を構えるからだろう。畑で採れたトウモロコシの皮を剥いたりせっせと作り溜めていた簪に飾りを取り付けたり、町中を回りたがる子供の為にほつれた浴衣の帯を修繕したり。
各々思い思いに祭の準備をしていく中を進みやがて道は野草が茂り家から田畑に変わる。田畑に囲まれた寂れた風景の中にぽつんと佇む茅葺き屋根の家へと近付く。

「シュラちゃん、居る?」

「おー、名前か。夕暮れにこの辺りを彷徨くのはあぶねーぞぉ」

徳利からお猪口へと注いだ日本酒をちびちびと飲みながら囲炉裏にくべた鍋をかき混ぜながら此方を見上げてへらりと笑うのはこの家で薬屋を営む霧隠シュラちゃんだ。彼女は幼い頃からお偉い様の所で活躍する忍だったが最近忍稼業から足を洗って忍の知識付けの為に習った薬を作り始め、これがなかなか効くと町民達の間で密かな評判を生んでいる。

「塗り薬切らしちゃって。ついでだから塗って」

布を解いて傷口を見せるとシュラちゃんは笑いながら立ち上がり十畳程の生活空間の半分を占める薬棚から小さな箱を取り出して雪のように真っ白な塗り薬を指に取って私の指に塗り込んでくれた。
血が付いた部分を折り畳み綺麗な所を傷口に当ててまた布を結び直してもらいお礼を言うと、からからと笑いながら箱を手渡された。

「まァた三味線かよ。三味線と縁組みでもするつもりかにゃ?」

「本当は琵琶がやりたかったの。でも、私には三味線の儚い音色が好きだから」

「そーかぁ?アタシには琵琶も三味線も全部一緒に聞こえるわ」

囲炉裏にくべられた鍋を覗くとざく切りの野菜や肉を放り込んだほうとうがぐつぐつと煮たっていて、適当で面倒臭がりのシュラちゃんらしいと嘆息する。
シュラちゃんは町民から無理に薬代を取り上げる事はせずに田畑で取れる野菜や米、山で仕留めた猪や鹿の肉を分けてもらって自分の食料として使っている。私は食料とお金をその時のシュラちゃんの生活状況から判断しているが、今日は食料も充実しているようなので小さな巾着に包んだお金を囲炉裏の縁に置けば毎度、とへらりと笑われた。

「シュラちゃんも町中に住めばいいのに。女の子がこんな所で一人は危険だよ」

「だいじょぶだいじょぶ、アタシ強いからさぁー。山賊だろーが暴漢だろーが一蹴りで退治してやんよ」

鍋からこれまた町民から貰った端が欠けた椀にほうとうをよそい食事を始めたシュラちゃんがふふんと得意気に鼻を鳴らして笑う。最近彼女の生活が潤っているのは医者の雪男くんと手を組んだとか何とか。床にはあちこちに薬草や調合途中の薬が放置されていて、これ以上居ても邪魔かと考え早々に退散にする事にする。扉に手を掛けた所で食事の手を止めたシュラちゃんに呼び止められる。

「お前、アタシより年上だろ?アタシの心配するより自分の心配しろよー」

「…本当に三味線と縁組み出来たらいいのにね」

シュラちゃんの言葉の真意が分かっていても私は今の生活を止める気は無かった。町の皆と仲良くやって、たまにこうやって色んな人と交流をして、三味線の教室を営み佳枝さんと仲良く屋敷で住みながら家族の帰りを待つのだ。
一部屋しかない小屋のような家から出るとシュラちゃんの口から漏れた溜め息には気付かない振りをして立て付けの悪い扉を引いた。

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