何が大丈夫なものか!塾の教室で授業を受けながら徐々に机へと下がっていく頭の中で私はそう叫んだ。眠いわけではない。眠かったのは薬の副作用が出ていた午前中だけで、昼休みは保健室で休むと言って計画通り旧男子寮でシフォンケーキのスポンジを焼いて来た。
問題は午後からの授業から急に頭が重く感じて十分と同じ姿勢を保てなくなってしまっていた事だった。午後の授業を受け持った先生が保健室ではなく病院に行くよう心配する程だったので、授業を受けている時の私はきっと相当酷いものだったのだろう。そして先生方の心配合戦はとうとう塾の授業にも及んだ。

「名字、大丈夫か?やっぱり医務室に行った方が…」

「だ、いじょうぶ、っです!大丈夫なので…薬飲んでもいいですか…」

「……無理しないようになー」

今日は出雲様に風邪が移らないように奥村や杜山さんと同じ一番前の列の席に座っている。マスクをずらして風邪薬と一緒に売店で購入したゼリー飲料をこっそりと飲んで昼食の埋め合わせをする。食欲は無いが取り敢えず胃に何か入れておかないと少し動いただけで体力の消耗が激しく大分辛い。

「名字さん死にそうな顔してるよ、大丈夫かな…」

「っつーか顔おっかねえよ」

マスクの下の私の顔を見て、三つ並ぶ長机の真ん中の列に座る奥村と杜山さんが眉を顰めて呟くのを聞きながら私はマスクを戻して口元を僅かに歪めた。
この風邪は神様から出雲様への愛の深さを試されている、すなわちこれは試練だ。上等じゃないか、見事この風邪から勝利をもぎ取って出雲様に献上するのだ。この戦いが終わったら私、誕生日プレゼントに用意したワンピースをお渡しするんだ…。ありがちな死亡フラグを立てているのにも気付かない儘私は残りの授業の消化へと意識を集中させた。


「名字さん、この後射撃の訓練を……何かあったんですか?」

「…先生、邪魔しないで下さい。今私の身体の中では仁義無き戦いが繰り広げられていてですね…!」

「話は医務室で聞きましょうか」

「はい」

塾内に設けられたトレーニングルームの貸し出しを申請する書類を持った奥村弟先生が最後の授業が終わり先生と入れ違いになる形で教室に入って来ると私の顔とマスクを見て表情を歪める。

「神木さん、いつも名字さんと帰っていますよね。すみませんが今日は一人で帰っていただけますか」

「は、はぁ…」

医工騎士である奥村弟には抵抗のしようもなく呆気なく廊下に引っ張り出された上に、出雲様に一人で帰宅する旨を伝えている。どちくしょう。私の人生の中で一度で良いから言ってみたい台詞ベスト3の「出雲様…っ、私の事はいいから…先へお進み下され…!」を雰囲気たっぷりに言えるチャンスを粉々に砕いてくれた。
医務室に連行された私は問診の後栄養不足と疲労からの風邪だと診断された。授業中に飲んだ薬が効いてきたのか大分身体は軽くなったが意識が朦朧とする。これはきっと眠気だ。

「医工騎士として言わせてもらいますが、これ以上の無理は危険です」

「…あ、う」

「こじらせたら命にも関わりますし、神木さんの誕生日会には人が集まるでしょう。皆さんに迷惑を掛けたいんですか」

「せめ…生、クリーム、を」

マスクをずらして秋の肌寒い空気を肺に満たす。意識を飛ばさないように重い瞼を押し上げて必死に奥村弟に懇願するも、彼の首は縦に振られる事は無かった。
出雲様。出雲様出雲様出雲様、私は頭の中に喜怒哀楽様々な表情を見せる出雲様を幾つも思い浮かべ己を叱咤する。これは試練だ、神からの試練なのだ。奮えよ自分!この奥村弟は中ボスのようなものなのだ、例えこの身を彼の得物で撃ち抜かれようとも練乳生クリームを作り上げるまで決して倒れてはならないのだ!

「お願いします!生クリームだけ作ったら後は大人しくしてます!」

「ッ、名字さん、落ち着いて!」

奥村弟の長い着丈の黒い團服に覆われた腕を掴み確固たる意志を示すように強く握り締める。意識が朦朧としていた私の豹変ぶりに奥村弟は目を見開き私の腕を掴み返して引き剥がそうとしてくるので、嫌だと駄々を捏ね彼にしがみつき攻防戦が繰り広げられる。暫くしてとうとう諦めたのか奥村弟は深く溜め息を吐き出し分かりました、と呟いた。

「但し、ケーキの仕上げが終わったら大人しく寝ている事。帰りは勝呂くんか奥村くんにおぶってもらって帰る事、いいですね?」

「はい」

ぶつぶつと何やら小言を呟きながら旧男子寮への鍵を取り出した奥村弟にやっと彼の腕から手を離して礼を述べた。
旧男子寮に入って奥村弟と共に食堂へ向かうと出来上がった料理を大皿に盛り付ける奥村兄や京都三人組、杜山さんが一斉に此方を見遣り、私が居る事に驚いたように目を見開いた。

「名字!お前阿呆か!」

「そうだよ名字さん、休んでた方がいいよ…!」

「ごめん、やる事やったらもう休むから…」

奥村弟から条件の一つとして支給された目元まで覆う大きいマスクに手袋を篏めながら、やいのやいのと騒ぎ立てる塾生をかわして私は冷蔵庫から生クリームと練乳を取り出し台所でフライドポテトを挙げる奥村兄の隣に立った。
ボールに流し込む生クリームの白とマスク越しに僅かに香る練乳の香りに身を引き締め、泡立て器を動かし始める。

「お前、マユゲの事好きなんだなー」

「正しくは敬愛崇拝憧憬」

「お、おぉお…?何かよくわっかんねぇけど、好きなんだな」

カシャカシャと泡立て器を動かす中で奥村兄と言葉を交わすもこの人には敬愛も崇拝も憧憬も分からないらしい。勝呂、本当に阿呆なのはコイツだと思う。
フライドポテトが揚がった少し後に私の生クリームも仕上がる。ふんわりと仕上がったそれに顔を綻ばせ冷やしていたスポンジを人数分に切り分け小皿に乗せていく。その上にたっぷりと生クリームを乗せてミントを添えれば毎年出雲様にお出ししているシフォンケーキが出来上がった。出来ればクリームをピンクにしたかったものの勝呂や奥村兄にピンクは面白い位に似合わないため、色は白の儘だ。

「ふぁあ…」

仕上げを終え台所から出て来た私の額に冷却シートを貼り付けた奥村弟は既に話を通していたのか傍に居た勝呂に背負わせて二階にある部屋へと運ばれた。二人部屋になっている室内ではベッドに志摩が布団を敷いていて勝呂の肩にごろりと転がった私の顔を見るなり瀕死やねと笑った。

「うるさい…志摩のくせに」

「ふは!名字さんうちんとこの蛇家族にそっくりやわ」

「蝮か、確かに似とるかもな」

ベッドに寝かされ布団を掛けられるとひんやりとした冷たさが心地好くて、頭上で交わされる会話そっちのけで布団に潜り込む。ふう、と息を吐き出し服の中でリボンとブレザーを脱ぐと此方に寄越せと勝呂に取り上げられてしまった。



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