今まで父の横でしていた教師の真似事とは違う、生徒の将来を背負っているのだと思うと体がずしりと重くなるのを感じる。夜もすっかり更け終電が走っているだろう時刻。くたくたになりながらも恋人が入り浸っている自分の部屋に向かって足を動かす。 何処にも吐き出す事が出来ないストレスが日に日に蓄積されていくのが分かる。愚痴くらいなまえに言えばいいじゃんか、と電話の向こうの兄は言っていたけれど、愚痴には同じ職場のなまえさんの友人が含まれるのだ、いくら誤魔化したってきっとバレるだろうし自ら信用を失うような真似はしたくない。階段をゆっくりと昇って角部屋の隣にある己の部屋に鍵を差し込む。開けた扉の隙間から光が漏れてきて、ほうと息を吐き出す。やっとの思いで捕まえたのに何処かに行ってしまうんじゃないかといつも不安で仕方ない。 暗い玄関に入り後ろ手でドアを閉め鍵を掛ける。床に鞄を立て掛けながら革靴を脱いでいると、明かりがついている扉の向こうがどたばたと騒がしくなり扉を開く音と共に剥き出しの足と冷房の風が此方にやってくる。革靴を脱ぐ為に下を向いた儘声を掛けようと口を開いた瞬間、視界に入っていた彼女の足が消えた。同時に僕の背中に負荷が掛かる。 「雪男さんっおかえりなさいいいいい!!」 酒の匂いと共に。 : : 「ふーんふーんふっふふーん」 「……」 どうしてこうなった。 僕の分の夕食が並べられた広い居間で、僕達はぴったり密着して座っていた。上機嫌で酒を煽るなまえさんを足の間に座らせながら僕は夕飯を一心不乱に口に運ぶ。今まで密着したのは抱き締めた時くらいの数回で、それもこんなに長い時間ではなかった。「雪男さんの服は私が脱がします!」といきなりのたまい慣れていないのと酔っているのが相成って拙い手付きでワイシャツのボタンを外していくなまえさんに少なからずムラッとしてしまった。 「雪男さーん」 「…はい、何ですか?」 「ご飯美味しいですか?」 「はい」 「ほんとう?」 「弁当も美味しかったですよ」 彼女曰く「昨日のおかずの詰め合わせ」の弁当箱が入った儘の鞄に目線を動かすと、分かりやすい位に彼女の表情が明るくなる。自分の感情に正直な彼女だから、思っている事が直ぐに顔に出る。素直に可愛いな、と思う。無意識の内に茶碗と箸を置いて丸い頭を撫でていた。驚いたように一瞬目を丸くしていたが直ぐにふにゃりと破顔しテーブルに向けていた身体を反転させてべったりと僕に身体を預け胸元に頬を寄せられた。 「ふふ、」 どきどきしてる。そっと僕の胸を撫でながらうっとりと目を細めなまえさんが嬉しそうに呟いた。確かに自分でも分かる位に心臓の動きが速い、というか全身が心臓になったみたいに足も手もどこもかしこもばくばくいっている。童貞か。…童貞だった。 「どうしたんですか…積極的になって」 「…ん…?」 「お酒だってあんまり飲まないじゃないですか。こんなになるまで飲まなくても、」 「…あのね、雪男さん。私って卑怯だから、こうやってお酒の力に頼らないと出来ないんですよぉ」 「……何を、ですか」 「……」 何かあったのかを探る為に問い詰めてみるとさっきまでへらへらしていたのが一変、沈んだ顔をして徐々に俯いていく。何だか泣いてしまいそうな雰囲気になって慌てて彼女の手をやんわりと握る。子供に諭すように柔らかい声を出して教えて欲しいと言えばぽそぽそと小言で言葉を紡ぎだした。 「あの、雪男さんに、言いたい事とか、そういうの…」 「僕に言いたい事があるんですか?」 こくりと首肯した彼女は下を向いて僕と繋がった手をもぞもぞと動かしながら少しずつ言いたい事を露にしていく。 「えと、あの…今まで雪男さん、私に触りたい時とか、聞いてくるじゃないですか」 「はい」 「わ、私が男のひとが苦手だって…分かってて、気を使って言ってくれてるんですよね」 「…そうですね」 「あの、あれ…もうしなくていいです」 えっ、と思わず小さく声を出してしまった。彼女の肩がぴくりと動いたので慌てて手を握る力を強める。あんなに男、というかイケメンを毛嫌いしていた彼女に今更イケメンに対する耐性がつくわけがない。声を掛けてスキンシップを取ろうとしても何処か逃げ腰気味な彼女が、一体どうしたというのだろうか。不安になりながらも彼女を見下ろすときゅ、と唇を引き締めた彼女が此方を見上げてきて、視線が絡まる。うっすらと赤く染まった頬は酔いのせいなのだろうか。 「イケメンは相変わらず嫌いだし触られるのも話すのも嫌です。…けど、だけど、雪男さんは…」 「……」 「雪男さんは……私、雪男さんのこと、すき、だから、あの……いいんです。ゆ、雪男さんの…したい事は、受け止めたいし……」 「っ、」 「い、痛いのとか、苦しいのとかは…嫌ですけど……好きにしてもいいって…言いたくて、」 なんだこのいきもの。 真っ直ぐ此方を見ているものの緊張と照れとパニックで顔を真っ赤にさせ、握っている手からはしっとりと手汗が滲み、言いたい事を全て吐き出して「ああう…」と声にならない声を出している。それでも聞いた、聞き逃してなるものか。漸く聞くことの出来た「好き」に言葉が出ず、返事の代わりに彼女を抱き締めて肩に顔を埋める。やや間を置いた後、おずおずと抱き返してくる彼女に心が満たされるというのはこういう事かと初めて理解する事が出来た。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ 萌可様、リクエスト有難う御座いました! すごく甘めとの事で、夢主が初めて雪男に好きと言ってみる話でした。今(7/23)掲載している拍手の御礼小説からの流れだと夢主側の背景も読み取れて分かりやすいかもです。 「隣のお部屋は雪男くん」気に入って下さり有難う御座います!完結まで暫しお付き合い下さいませ。 |