いつだったか。
女の子の太股に挟まれた時、往生しそうだと言った記憶がある。但し、様々な事情が積み重なった末の言動であったが。
さて、今の自分の状況はどうだろうか。頬を掠める温もりと柔らかい感触に廉造はひたすらに意識して無心を貫く事に今までにないくらい集中力を使っていた。

「がんばれ勝呂」

「先輩ももっと頑張って下さい」

頭上で交わされる会話に続いて、頬を挟んでいる柔肌に力が入り顔が圧迫される。決して上は見るなと固く言われている為視界には月夜に照らされた影が所々雑草が顔を出している地面に揺らめいている。
暫くして頬を挟む柔肌がするりと上に浮かび両肩に掛かっていた体重が消えた。もういいよ、と頭上から降ってきた声に頭を上げれば二階の窓から顔を出している名前の姿が其処にはあった。

「肩車お疲れー。今勝呂が玄関の鍵開けに行ったから」

「はよしてくださいねー、こんな所に一人とかほんまあきませんわ」

「そんなん勝呂クンに言ってくださーい」

廉造の軽口に軽口を返した名前の白い手が闇夜にひらひらと揺れる。彼女に聞きたい事は沢山ある。何故悪魔祓いに通じる自分達ですら知らない学園の七不思議という存在を知っているのか、何故見た目は自分達と同じ位だと言うのに柔造や金造、蝮と顔見知りなのか。何故学校で流れている噂が学園の七不思議と関係していると断定出来るのか。
心の中では多くの疑念が互いに絡まりあいながら渦巻いているというのに、彼女の顔を見ているとそれらを口に出す事が野暮ったく感じてしまい結局彼女に話を聞く事は出来ない儘でいる。

程なくして玄関の鍵を内側から開けた勝呂にストレートに問いをぶつけてみる。

「坊は先輩の事、どう思ってはりますのん?」

「友達が蛇が代名詞の蝮が懐いとるんや、悪い奴ではないやろ。信用に足る人物だとは思う」

「……さっきから金兄からの着信やばいんやけど」

「……」

ポケットの中で震え続ける携帯の画面には「金兄」の文字。数年前に学園を卒業する際に柔造と共に「学園には面倒見てくれる先輩がおるから」といつの間にか自分の世話係を頼んでいたくせに、いざ先輩が関わろうとするとまるでエスパーにでもなったかのように電話をしてきては「先輩に手ェ出したらいてこます」と冗談にならないような迫力で脅かしてくる。
これに関して勝呂や柔造、蝮は声を揃えて「それは仕方ない」と白旗を上げている。どうやら金兄は「そういう意味」で先輩を慕っているらしかった。しかし本人は知らぬ顔を通し、頻繁に連絡は取り合うものの金兄が腕を伸ばせば先輩は暖簾の如くひらりとかわしてだらだら先延ばしするかのように金兄を焦らしていた。

「懐中電灯、持って来れば良かった。まさか学園探索だとは思わなかった」

「夜中の用事て、何を想像したんです?」

「ごぜーんにじー、ふみきりーにー、ぼうえんきょうをかついでったー」

「……天体観測ですか」

「……しかもさっき日付変わったばっかですやんかー、って、痛っ!」

真ん中で携帯のライトで廊下を照らしながら廊下を歩く名前が軽口を叩く廉造の脇腹に軽く、しかし女の力にしては少々強めな肘打ちを食らわす。
一瞬息が詰まるのを実感し悶絶する廉造の耳に夜の学園に響くには不自然で、相応しい異音が飛び込んでくる。名前と勝呂の足も止まった事によりその異音は更にはっきりと廊下いっぱいに響き渡った。

ぽろん。ぽろろろん。

「今から行くのは七不思議の一つ……ま、言わなくても分かると思うけど音楽室ね」

「……いきなりハードなんきますね」

「何言ってんの、七不思議の中じゃこれが一番易しいよ。イージーモードどころかヘブンモードだわ」

ぽろろんと鍵盤をなぞるように辿っていた音は突如拙いものから哀愁纏う懺悔へと響きを変える。
低音と高音が重なりあい弾き手から伝わってくる後悔がゆっくりとしたテンポで足元からせり上がってくるような気さえする。
何なのだ、これは。刹那でも呼吸が止まる程だった脇腹の痛みすら忘れ廉造は大口を開けた儘、非情にも己も置いて立ち去ろうとしていた数歩手前にいる二人に視線を向ける。勝呂は弾き手の気配を辿っているのかじっと目を閉じた儘声を発さず、名前も名前で何事かに考えを巡らせているらしく共に暫しぴくりとも動かなかった。

「名のある悪魔ではないですね。只の霊や」

やがて気配を辿るのを止めた勝呂が諦めたように息を吐き出し己の見解を述べれば、名前がその答えを待っていたかのように視線を上の階にある音楽室へと向ける。

「あれは只悲しいだけだから」

「何故です?」

「さあ?理由を探っても何も出てこないくらい昔から居るみたいだから。人を取り込んだり悪さをする存在ではないのは確かかな、一回弾いてる途中にピアノの蓋閉めたけど何もされなかったし」

「祟られますよ、先輩…」

「あー、でも嫌味は言われたな。言ったのはピアノの奴じゃないけど。あれが実体化出来るのは手だけだから」

それは追々。と一度言葉を区切って廊下に並ぶタイルへと目を落とした名前は最後にぽつりと呟いた。

「もう思い出せないのかもね。何に悲観していたのか、何故後悔しているのか」

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