旅館の至る所で床に臥せっている出張所の人達にいたたまれなくなって廊下の隅で着物の合わせに潜ませていた懐紙で潤む目元を押さえた。いつも笑顔と誇りに満ちている皆の顔は魔障による苦痛に歪み藻掻き苦しんでいる。あっちに行ったりこっちに行ったりで忙しく動き回っている母様の背中は力強くて、未だ齢十五の私にはまだまだ届かない存在だと感じた。

「若女将!」

「そないな所で何しとるんです?」

「青、錦。…うん。床が汚れててなあ、拭いとったんよ」

廊下の向こうからやって来た青と錦に視線を向けて涙が滲む懐紙を畳んで胸元にしまい込んだ。青と錦もまた魔障を受けた数ある祓魔師達の一角で、具合はどうかと聞けば若女将を見はったら元気一杯になりましたわ、と笑顔を見せてくれた。中学の卒業と同時に母方の家業である虎屋旅館の女将見習いとして従事し始め、母様には日々厳しく指導されては沢山の事を学んできた。幼い頃は名前、名前と言って可愛がってくれていた出張所の皆も立派に育ったと目元を拭い若女将と呼んでくれるようになった。周りが男ばかりでいつも一人だった私の手を引いてくれたのが青や錦、そして彼女達の姉である蝮だった。

「青と錦が元気や言う事は蝮も大分良うなったみたいやね。柔と金と一緒ん部屋で騒がしいやろ」

「せやから若女将呼びに来たんです、申共を止められるんは八百造か若女将だけですえ」

見てくれがほぼ一緒な青と錦に挟まれてやってきたのは魔障を受けた人達が寝かされている大部屋の奥、床に臥せる皆に頭を下げつつただならぬ雰囲気が漂う六つの布団へと近付いていった。

「もう、こないな所でいがみあいせんと!みぃんなもう立派な大人やろ!」

「わ、若女将!」

「おー怖!女将のソコ継いでどないすんねん。っちゅーか年上の俺に指図すんなや、名前の阿呆」

「阿呆はお前やろ金造」

布団を申し訳程度に足に掛けた儘上半身を起こして嫌味に嫌味を重ねた小競り合いをしていた三人の間に割って入れば、一番近くに居た金に鼻を摘ままれた。昔は丁寧に結い上げた髪をぐしゃぐしゃに崩されたりして大変迷惑だったが、母様と八百造にこってり絞られてからはよく鼻を摘まむようになった。みっともない頭になるよりだったらずっとマシなので、金が言い掛かりを付けて来ても文句は言わずにぐっと我慢する。金に対する我慢は小さい頃からしてきた、余程酷い事を言ってこない限り私は何も言わない。それでも年に一、二回は不満が爆発して怒鳴ってしまったり意図的に無視してしまったりするけれど。
やっと金の手が離れた所で皆の具合を訪ねれば他人行儀な態度しよってからに、と金にヘッドロックを掛けられたが直ぐに柔が助けてくれた。

「若女将、騎士團から応援が来るて女将が言うててんけど…」

「おん、医工騎士めっさ連れて来るて言うとったような」

「ほんまかー。誰か知り合いでも来たらええんに」

蝮がゆるりと小さな頭を傾け問うて来た事に首を縦に揺らせば頭の後ろで手を組みながらのんびりとした口調で金がぼやいた。相変わらずマイペースな金に苛立ちを覚えたのか蝮の目付きが鋭くなり、そもそも!と語気が荒くなる。柔と金の父親である八百造が話に挙げられ指導力不足やら所長を辞するべきやら喧嘩腰の文句がつらつらと並べられる。其処に金が乗せられて怒鳴り付ければ更に蝮は志摩家全体をある事ない事何でも口に出してなじっていく。父親や志摩家に誇りを持っている柔がそれを聞き逃す筈も無く蝮と柔、金の間に座っていた筈の私はあれよあれよと言う間に蝮の後ろまで下げさせられる。

「やった、柔兄がキレた!」

完全に堪忍袋の緒が切れてしまった柔が声を荒げて金の手にあった錫杖を浚って蝮の首元へと突き付ける。蝮も臨戦態勢に入り腕から出した蛇がちろちろと舌を出しては首を上げ下げして錫杖を握る柔に威嚇している。

「もう…八百造はまだ具合が悪いのに…」

互いに得物を出して睨み合ってしまえば丸腰の私が手を出す事は出来る筈も無く、程なくして始まった錫杖と蛇の終わりの見えない周りを巻き込んだ戦いに私は溜め息を漏らした。縦横無尽に飛び回る錫杖が大部屋にいる他の祓魔師達の頭上を飛び回ってはあちこちに迷惑を掛けてしまっている。
八百造や蠎を呼んで来ればこの場は収まるがその前に大部屋にいる祓魔師達が危ないし、折角東京から来てくれた騎士團の人達にも危害は加えられない。女将としては少々見苦しいが此処は声を張り上げねばならない、そう思って肺一杯に息を吸い込んだ所で蛇と錫杖の間に護印が結ばれ光を放ち蛇と錫杖の動きを封じた。騒ぎを聞き付けた蠎が来たのか、そう思ってこの空間と大部屋を仕切る襖へと視線を向けると。

「やめぇ!」

「坊!」

「竜士様!」

「……あ…っ」

蝮の肩越しに見えたのは間違いなく血を分けた双子の片割れだった。父様に啖呵を切ってこの旅館から出て行き祓魔師を目指して正十字学園に入学した勝呂竜士だった。
どうして此処に居るのなんて言葉すら驚きのあまり声が出ず、蝮が着ている旅館の浴衣をぎゅうと掴んで身体を縮こませ蝮の背中に頭を擦り寄せる。蝮は何も言わずに顔を逸らしてお兄と父様への嫌味を口にする。それには何も言わずにお兄はくるりと踵を返して大部屋から出て行こうとする。怒っていたら苛立っている時は足音が荒くなるのがお兄の悪癖だ、家を出てたった半年しか経っていないのに髪型と顎髭以外何ら変わっていないお兄に目頭が熱くなるのを感じた。

「あーっ、せや坊!名前も居んねん、顔見てきいや!」

「えっ、名前ちゃん!?」

急に声をあげて私の名前を出した金に身体が大袈裟な位にびくりと跳ねる。金の言葉に反応するへにゃへにゃした声は廉ちゃんのものだ。同時に荒い足音がぴたりと止んだものだからその場からさっさと離れてしまおうと思い立った私はバッと立ち上がり蝮を指差している金に向かって思い付く限りの悪口を浴びせて逃げる事にした。

「馬鹿金!ひよこ頭!」

着物の裾をぱたぱたと揺らして縁側から旅館の奥の行き止まりに逃げ込めば何やとォ!?と声を荒げる金の怒鳴り声が聞こえた。金の馬鹿、私の事なんか放っておいていいのに。
床に臥せる祓魔師達や柔や金、蝮に八百造達に漠然とした不安を抱えていたのに、お兄が現れた途端にその不安が払拭されてしまった自分が居る。行き止まりの隅で帯が潰れてしまわないように気をつけながらしゃがみ込み、濡れた所が毛羽立った懐紙を取り出して目頭に当てていると廊下のフローリングがきしりと悲鳴をあげた。分かってるよ。分かってしまう。嫌でも分かる。心地良い空気。忘れるわけない。互いの進路が決まるまで家の中ではずっと隣に居たんだから。

「……お兄」

「……」

くるりと振り返れば遠くに居たお兄が直ぐ近くにいた。奥は暗いし黙ってうつ向いた儘のお兄の表情も暗い。ゆらゆらと揺らめく水面が頬に熱を伝えながら床に一つ二つ、小さな小さな水溜まりを作っていく。小刻みに震える唇、声も震える位に泣いたのなんて初めてな気がする。

「お兄、お願い。皆を守って」

ひく、と喉がひきつる音で漸くお兄が静かに顔を上げた。みっともなくぼろぼろと涙を零す私に驚いたように目を見開き、背中に腕を回してぎゅっと抱き寄せてくれた。私の手を片手で包み痛くない程度に力を込めて握られ、背中に回った腕があやすように絶えず上下に動く。金の度の超えた意地悪や廉ちゃんのエロ魔神っぷりに耐えきれずお兄に泣き付いてしまった時、何も言わずにこうやって手を握りながら背中を撫でてくれた。いつもは直ぐに涙が引っ込む筈なのに、何故か制御出来なくなったダムのように瞳から溢れる涙は止まってくれない。ひくひくと声を上げて泣き続ける私にお兄は小さく「俺が全部守るから」と確かな意志が籠った声で囁いた。ぐしゃぐしゃに握り潰してしまった懐紙の代わりにお兄のハンカチで目元を優しく拭われながら私の頭の中にはぼんやりといつか金が私に言った「ブラコン」という言葉が渦巻いていた。

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