教卓の横にあるパイプ椅子に座って腕時計に目を落とした奥村の若先生が腕を上げて小テストの終了を告げる。左側の机に座っている坊と子猫さん、そして謎の少年宝くんの答案用紙を集めて若先生に提出する。真ん中の机は奥村くんが、右側の机は名前ちゃんが集めてそれぞれ先生に渡しに向かう。

「それじゃあ今日の授業は此処まで。教卓に週末の課題プリントを置いておくので各自忘れずに持っていって下さいね」

「先生、さようなら」

「さようなら、吉野さん」

授業の終了を告げる声を共に立ち上がり教卓のプリントを一枚摘まんで半分に折りつつ足早に教室を出て行ったんは名前ちゃん。俺と同じクラスで出雲ちゃんに比べたらややおっとりで…せやな、朴さんみたいな感じやろか。そんで杜山さんみたいに出るとこ出てへんちょっと地味な子やけど其処はあれやな、俺の女の子愛の前ではそんなん関係あらへんわけで。そんな名前ちゃんはここ数日授業が終わったら何も言わずにそそくさと帰ってしまう。せめて俺には!その控え目な笑顔で「ばいばい志摩くんまた明日」って言ってくれはってもええのに!拳を握って悶絶する俺に子猫さんが首を傾け、前の席に座っとった坊が「そんなに課題が嫌か」と溜め息混じりに呟くのが聞こえた。

次の週に入ってからも名前ちゃんの様子は変わらず授業が終わればいち早く、まるで遊びに行くために校庭へと駆けて行く小学生のように走って教室を出て行ってしまう。寮の部屋が近いという出雲ちゃんによると出雲ちゃんが寮に帰って来ても食堂や浴場に名前ちゃんの姿は無く、門限ギリギリの時間に私服姿で帰ってくるそうだ。何をしとるのか遠回しに聞いても何も答えてくれはらないらしく、出雲ちゃんは何か相当ヤバイ事をしているか彼氏の家にでも遊びに行っているじゃないかと推測していた。
流石出雲ちゃんナイス推理と言う元気が無いのは何故だろうか。塾が始まる前に聞いた出雲ちゃんの推理がいつまでも頭の隅に引っ掛かってしまい授業に集中出来ず若先生に怒られた上に課題を増やされてしまった。心配そうに俺を見つめる名前ちゃんを見て出雲ちゃんが小さく溜め息を漏らすのがチラリと視界の端で見えた。

「それじゃ、今日は此処までー」

「さようなら、先生」

「あ…名前!…ちょっとアンタ、早く追い掛けなさいよ!」

「ぞええ!?何で俺!?」

本日最後の授業が終わったと同時にいつものように素早く立ち上がった名前ちゃんは出雲ちゃんの制止の声すら聞かずに教室を飛び出して行く。ぎゅっと眉を中央に寄せて此方をぎろりと睨んだ出雲ちゃんに追い掛けるようけしかけられたのは俺で思わず目を剥いて隣に座る子猫さんの影に隠れるように身体を縮こませてしまう。

「アンタが言い出したから気になってしょうがないのよ。さっさと追い掛けなさい」

「それは堪忍!何かストーカーみたいですやん」

「せやかて志摩さん、ずっと吉野さんの事気にしてはりましたよね?」

「志摩、さっさと行って来い鬱陶しい」

「子猫さん、坊まで…!」

矢のように降り注ぐ「早く追い掛けろ」の声に半泣きになりながらも席を立ったのは何より自分が名前ちゃんの事になったからで。鞄は坊と子猫さんに任せ手ぶらの儘奥村くんや杜山さんがぱちくりと瞳を瞬かせる前を通り抜けて、俺は一人名前ちゃんを追う為に教室を飛び出した。
以前の実技で蝦蟇から逃げる名前ちゃんの足はあまり早くなかったから追い付くんは容易い。ただ彼女が何処に行ったんかは分からない儘俺は小走りに見晴らしのええ所から下を見下ろす。学園から正十字学園駅に続く緩い下り坂をふわりふわりとスカートを揺らしながら下っていく名前ちゃんが見え慌てて後を追うべく家や店の間にある細い石段を下りていった。

入り組んだ路地から駅に通じる広場に出る頃には既に名前ちゃんの姿は無く、まさか電車の乗ったんやないかと焦りも出てくる。此処で手ぶらで帰った日には役立たずやら坊達に無能やとけなされた上に出雲ちゃんに更なる罵倒をされるに違いない。出雲ちゃんになら…とこれ以上探し回る面倒臭さも相まって罵倒フルコースに心が傾きかけるも一瞬般若のような坊の顔が頭をよぎり慌てて首を横に振る。
嫌や、出雲ちゃんの言葉攻めの後に襲う坊の座禅三時間コースはほんまに堪忍やわ。大体坊は変態すぎやねん、もうちょっと周りの女の子に目ぇ向けて…と思考も脱線しかけた所でふと何気なく視線を向けた先のものに意識を奪われてしもうた。ふわふわと浮かぶのは紫とオレンジの風船、それぞれ白く「Trick or Treat!」と印刷され時折風に吹かれて左右に大きく揺れる。風船の糸の先は茶色のバスケットにくくられ中には小さい頃から駄菓子屋でよう見とった注射器の容器に水飴が入った一つ五十円程の菓子が沢山詰まっている。そしてその菓子の一つを手に取り道行く人に配っていたのが――

「…名前、ちゃん!?」

「わあっ!し、志摩くん…!」

後ろからでも分かるその姿に思わず名前を呼んでしまい、びくりと身体を震わせた名前ちゃんは恐る恐る肩越しに振り向き泣きそうな表情を浮かべた。その格好は先程までの正十字学園指定の制服ではなく太股がちらちらと見え隠れする丈の短いナース服で背中には悪魔の羽、ナースキャップから角が取り付けられていた。ニーハイから肘まで隠れる手袋までが全て紫でコーディネートされた中で名前ちゃんの顔だけが恥ずかしさからか真っ赤に染まっていた。


「わ、私そんなに怪しかったかな…」

「奥村の若先生も首を捻る位には」

事情は後で説明するから、と言われ菓子を配り終えるまで駅前のベンチに座って待っていると空も大分暗くなって来た所でナース服の儘制服を抱えた名前ちゃんが戻って来て、差し入れで貰ったらしいホットココアの缶を手渡された。話を聞けばごく単純に菓子を配る短期のバイトをしていただけらしい。ナース服を手渡された時は戸惑ったけど、と笑う名前ちゃんはいつものようにおっとりしとる子やった。
自分が帰った後の皆の反応を聞いて尚更恥ずかしくなってしもうたらしく、バイトでナース服着てますなんて言えない…と横で頭を抱える名前ちゃんにバイトだけでええと思いますと返しておいた。

「あ、そうだ。はい志摩くん」

「へ?あ、ああ…おおきに」

不意に何かを思い出したかのように顔を上げるとナース服のポケットから先程配っていた注射器に入った水飴が入った袋を取り出し俺に差し出してきた。其れを受け取り注射器に詰まったピンク色の水飴を何となく見つめていると立ち上がった名前ちゃんがふふ、と笑みを漏らした。

「やっぱりバイトをしてるっていうのは内緒にしよう。志摩くんと私だけの秘密、ね?」

頭上から降って来た言葉に顔を上げた時にはもう彼女の姿は人混みの中に消えとった。明らかに浮いとったナース服の後ろ姿がどれだけ目を凝らして左右に動かしてもとうとう見つかる事は無かった。
二人だけの秘密、なんて。なんや期待してまうセリフやなと考えれば先程まで冷えきっていた筈の身体が急に熱を帯びてくるのが分かった。出雲ちゃんにしか興味が無かった意識が急角度で折れ名前ちゃんへと向かっていくのが嫌でも分かる。
どないしよう、明日からどんな顔して会ったらええねん。些細な事から劇的に変化していく自分の頭を抱えると、それすら先程同じように頭を抱えていた名前ちゃんが浮かんでどうしようもなくなる。

っちゅーか、坊達にどう説明したらええんやろ。水飴とココアの缶を両手に持った儘溜め息を吐き出すと吐く息は冬が近いからか白く、ふわりと宙に飛散していくのをバスケットに繋がれた風船の印字と重ねてしまった。