長く熱に蝕まれていた身体が珍しく微熱まで下がり、兄から登校の許可が下りた日の事。

「……」

久しぶりの学校、そう考えながら登校した先では至る所で甘ったるい匂いが立ち込めていた。あーあ、登校する日を間違えたついでに生まれてくる世界も間違えたと消極的な思考に浸りながら保健室へと向かう。が、やはり其処でも漂う甘い匂いに踵を返す羽目になった。三十二円のブラックサンダーでさえも食べ切るのに三十分は軽く掛かる私にはむせかえる程濃厚な匂いに既に胸焼けを起こしつつあった。そうしてふらふらと校内を歩き回って逃げ場所を探した結果、辿り着いたのが情けない事に朝練中のバスケ部の部室前だった。

「……」

胸に突っ掛かったような気持ち悪さのせいで言葉一つ吐く気になれない。教室に戻るなんて有り得ない、朝練中なら部室には誰も居ない、体育館まで歩く体力も既にない。ないない尽くしで一歩も動けず手詰まり状態である、参りましたと空虚な空間へと白旗を掲げる。
壁に伝うようにずるずると座り込み冷たい膝へと火照った顔を押し当てた。どうか兄の機嫌が悪くありませんように……訂正、こんな所まで来た私を見た兄の機嫌が悪くなりませんように。暫く部室の扉横に座り込んで気分が良くなるのを待っていると体育館の扉が軋みながら開かれる音が響いた。此方に向かって歩いてきて、少し離れた所で足が止まる。私が居るのに戸惑っているらしい、暫く迷った後足音と気配は此方に近付いてきて私の目の前で止まった。

「征ちゃんの妹ちゃんね?」

頭に降ってきた優しい声は私を兄の部屋まで送ってくれた人のものだ。のろのろと顔を上げると輪郭に沿う様に伸びている黒髪、私と目が合うなり心配そうに下がった眉が顰められた。そんなに嫌だっただろうか、そんなに気分が悪くなる程酷い顔をしていたのだろうか、私。

「具合、悪いの?保健室に行く?」

「匂いがちょっと…保健室にも、行ったんですけど…」

「……匂い?」

「すみません…朝練終わるまでには…戻るので、もうちょっとだけ…すみません、」

必死に謝罪を紡ぎながら彼に許しを請い続けた。気持ち悪い、ごめんなさい、吐きそう、すみません。もう何に対して謝っていいのかすらも分からない位に意識が朦朧としてくる。床は頭上?天井は足元?私は誰で、誰に向かって謝ってるんだっけ。そもそも今紡いでいる言語は何だったか?目を覚ましてすぐ熱を計ってくれたあの男の人は誰だったっけ……。

「×××××!」

目の前の物体が何処かに向かって声を張り上げた。最初は何を言っているのかが理解出来なかった。この人は宇宙人なのか?

「征ちゃんの妹ちゃんが具合悪いみたいで…征ちゃん呼んできて」

今度はちゃんと聞き取れた。しかし内容を理解するまでにはかなりの時間を要し、兄が来るのだと理解したと同時に目の前の人の視線が上を向いた。あ、やばい、来た。どうしよう謝らないとでも気持ち悪い熱い吐きそう動けない唇が動かない声が出ない。タイル張りの床が私に腕を広げて、さあおいでと囁いている。

「……っ」

身体を投げ出して床にダイブしたものの、直前に誰かの腕によって掬い上げられてしまった。想像していた冷たい床の抱擁を邪魔された私は目だけを動かして腕の持ち主を探ろうとするも、突如床が一気に遠くなったせいで意識は遥か下にある床の方へと逸れてしまった。腰とお尻に回された腕に体を支えられぶらりと宙吊りになった足が力なく揺れて、私の頭は私を抱き上げた誰かの肩に乗り上げた。すん、と無意識に鼻を啜れば宥めるように腰にある腕がぽんぽんと背中を叩いてきた。どうにかこうにか頭を横にずらしてみると私の髪の毛と同じ色が首筋にちょこっと掛かっている。間違いない、私を抱き上げているのは兄だった。

「……あ、かし、くん」

「…分かってる。保健室には連れて行かない。体育館は寒いし、君は僕の妹だからきっと部員達に好奇の目で見られるだろうけど。それでもいいか?」

「……う、ん…へいき…」

耳元で響く声に私の身体を抱き上げているのは兄だと理解する。告げられた言葉に首肯すると兄は玲央、と男の人の名前を呼んで何か指示を出している。男の人が部室の扉を開けた所で体育館から新たな気配がやって来る。

「赤司ー!ベンチ横に筋トレマット敷いてきた!いもーとちゃん休ませて!」

「こたちゃんが気を利かせるなんて……!」

「小太郎、礼を言う」

「いもーとちゃん大丈夫?」

兄の背中に回り込んだ気配は私の様子を伺いながら兄の周りをちょろちょろと動き回っている。まるで黒子くんに群がる黄瀬くんみたいだ、なんて考えていると視界が一瞬白に塗り潰された。部室前は暗かったから余計に体育館の明かりが眩しく感じて、光を避けるように顔を伏せると目の前に洛山のレギュラージャージが映り込んだ。
私の身体を蝕む甘ったるい匂いは、もうしなかった。

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