お前が幸村精市の隣にいる事がどれだけ"神の子"の価値を霞ませているのか分かっているのか。この身の程知らずめ!
そう言われた日から私は精市のことを幸村と呼ぶようになった。幸村がテニスの話をする度、面白くなさそうな顔を浮かべるようになった。幸村が描くような繊細な水彩画の真似事を辞めた。理由は分からないしあの人が言った言葉なんかこれっぽっちも心に響かなかった。だけど、何となく、駄目だと、そう、思った。
私の手はまるで今までがそうであったかのようにざかざかと手早く構図を決め、新しく買った新品のアクリル絵の具を紙に直接乗せて荒々しく彩りを添えていく。滝登りしてる竜みたいだ、無心の儘に花を一輪描いた私に幸村はそう言って少しだけ寂しそうに笑った。
親の転勤が決まった日の事だった。

下書き用にと渡されたスケッチブックの一番最初に描いたのは練習に連れて来た忍足のイグアナだった。昼休憩の余った時間にスケッチブックを持って忍足の元へと向かい、モデルにしてもいいかと尋ねれば別嬪さんに描いたってと言われた。メスなのかと聞けば分からんと言われた。スケブの端で殴っておいた。
食事を終えておねむらしく、えらく大人しいイグアナを手早く書き上げたら横から見ていた遠山くんにスケブを拉致られてしまった。追い掛けようにも仮にも人のペットを置いていくわけにもいかず、刺激させないように抱っこしてみれば存外に大人しくしてくれた。ちょっと重かったので小走りで皆の元に戻ったら、差し入れに持って来た蜂蜜レモンを摘まみながら私の描いたイグアナを眺めていたレギュラー全員が一斉にレモンを噴き出した。何で。
忍足にイグアナを返してから光にイグアナ可愛いかもと言ったら光が唐突に俺将来イグアナになる等と言い出し始めた。別に止める理由は無いので何色のイグアナになるのか聞いたら止めてくれと泣かれてしまった。何で。

目に付いた物は何でも描くようになって、欠伸を噛み殺しながら朝練にやってくる部員達の朝の日課は私のスケブを見る事になっていた。私の描いた物を見てこれは誰の私物なのかを当てるゲームをしているらしい。
ある日描く物が無さすぎて父親の勝負パンツの一つであるTバックを描いた所、その絵を見たらしい忍足が朝練中顔を真っ赤にしながらずっと私の事を見ていたので練習後にあれは父親の物だと説明し誤解を解いてやったら忍足はめそめそと泣き出し、何故か光に「俺のときめきを返して下さい」と苦情を言われた。何で。

何で。何で何で何で何で?
どうしてこんな記憶が溢れては消えていくのだろう。どうしてコートに立つ皆は寂しそうに笑うのだろう。どうして、光は、泣きながら、私に、謝るのだろう。

「八月二十日」

むくりと起き上がった先の景色はいつもとは違う。けどこの数日間で見慣れたものになりつつある。
今日は八月二十日だから、昨日は八月十九日。全国大会の準決勝で青学と戦って、そして、負けた日。
あー、そっか、負けたのかあ。なんて考えながらベッドに座った儘ぼうっとしていたらとんとんと部屋のドアがノックされた。あーい、と間の抜けた返事をしてドアの元へ行こうとするも足を付けた床の冷たさが心地よくて思わず身体を横たえてしまう。やべー気持ちいー。床に転がった儘ごろごろしているといつまで経っても扉が開かない事に疑問を抱いたのか扉を再度ノックされる。

「開いてるよーう」

床でごろ寝した儘自分で扉を開けるよう促せば、少しの躊躇いの後扉がゆっくり開いて我が忠犬がひょっこり顔を出した。一瞬ぎょっとした表情を浮かべるも直ぐに昨日のようなふにゃふにゃになった顔になってとてとてと私の元へと真っ直ぐにやってきた。
ぎゅう、と冷たい身体に抱き締められて頬や首筋に熱い涙がぱたぱたと落ちる。美術の時間のクラスメイトの言葉を思い出す。寂しがるんやないやろか。何も言わずにはらはらと涙を流す光に滲む表情は後を悔やむものではない、先を恐れているものだ。

「さびしい」

ああ、あの時みたいに悲しそうな声を出さないで。

「さびしい」

ひくひくと光の喉が痙攣して喉仏が上下にせわしなく揺れる。それでも光は言葉を紡ぐ事を辞めなかった。ぐちゃぐちゃの顔の儘ピアスも付けるのを忘れた儘、ただただ真っ直ぐに私を見て縋るのだ。ぽろりと零れた涙を掬うも踏みにじるも、私次第。物心ついた頃から幸村に何処へ行くにも手を引かれていた、そんな風船のような私の前に現れた重石のような言葉。寂しい、行かないで、一人にしないで。

「私は何処にも行かない。ずっと光の傍にいるよ」

光。光のお陰で私今すっごく楽しいよ。光も今が楽しいなら先の事で泣くより笑っていてよ。目の前にいる寂しがり屋に私の気持ちが少しでも伝わりますように。
床と光の体温の心地よさに身を委ねてその儘意識はぷつりと途絶えた。


「しっ、白石ー!!財前がメリーに呪い殺されとるー!!」

どたどたと響く騒がしい足音と廊下から聞こえる叫び声で目が覚めた。どうやらあの儘二度寝を決め込んでしまったらしい。隣からんん、と低い声が聞こえるので光はまだ眠っているのだろう。叫び声の元を辿るように開けっぱなしの扉へと視線を向けると、扉の向こうではいつものバンダナを付けている制服姿の一氏くんの姿があった。

「呪いっちゅーか無理心中やろ」

ふふ、と反射的に漏れた笑い声は私から出たもので、一氏くんはキモいとあからさまに不快そうな表情を浮かべ足早に去って行ってしまった。廊下の向こうでは相変わらず白石ー!と叫ぶ声が響いている。忍足が煩い、いつもの事なのにそれが何だかとてもおかしくて。目を腫らした光が寝惚け眼で抱き付いてくるまで腹を抱えて笑った、そんな八月二十日の朝の話。

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