「実家には帰らないのね」

世間の会社と違って情報屋に仕事納めなどある訳がなく十二月三十一日であるこの大晦日にも臨也さんのパソコンのキーボードを叩く指も、臨也さんの指示通りファイルを整理して仕事をこなす波江さんの姿もいつも通りだ。ただ一つ違うのはいつもより人がごった返しているせいで臨也さんの元にやって来るヤバい職業の方々が街中を歩くには少々目立つという事で、事務所に訪れる者は全く居らず客の代わりに冬休みを謳歌している同居人の私がソファに座って波江さんが淹れてくれたココアにありついている。

仕事中の二人の邪魔はしたくないのでテレビを点ける事も無くカップの中でたゆたう茶色い液体を左右に揺らして遊んでいると、ぱたりとファイルを閉じた波江さんが椅子の向きを此方に向けて私へと問いを投げてくる。

「はい。両親がハワイ旅行に行っているので家に帰っても誰も居ないですし」

「なら私の上司に私の賃金を上げてもらうよう言いくるめてくれない?最近人使いが荒くて堪らないわ」

こくりと頷いて波江さんの問いに答えると彼女の切れ長の瞳がちろりと臨也さんを捉える。確かに最近波江さんは残業を命じられた上に夕飯作りもさせられている気がする。ふむ、と顎に指を当てて少しだけ考えを巡らせた私はココアをテーブルに置いてパソコンと睨めっこをしている臨也さんへと標的を定める。

「臨也さん、波江さんの賃金を上げて下さい。一揆です!」

「善処するよ」

「おお…!」

「…名前。貴女、善処の意味を知っているの?」

ストレートに訴えたら何だか良い感じの返答を戴けた。ぱぁっと表情を明るくさせ波江さんへと顔を向けると彼女は呆れたように肩を竦めていた。幾ら同じ折原の血筋と言っても私はただの一般人であり臨也さんのように聡明な人間ではない。
波江さんの言葉に首を傾けるとくっくっと臨也さんが喉を鳴らして笑い出した。頭が良い二人に遊ばれているようで何だか癪に触る、眉を寄せて立ち上がればつられたようにセピア色の瞳が私を静かに捉えた。

「仕事に邪魔になるのは心苦しいので外に出て来ます」

「ははっ、拗ねた?」

「拗ねたのね」

「拗ねてません」

近くの大学の図書館にでも行ってまだ終わっていない冬休みの宿題でもやろう。いや、でも年末の大学って閉まってそうだな…最寄りの図書館を調べてみようと携帯を取り出しながら、二階に続く階段に足を掛けた所でインターネットの画面が急に着信音へと変わる。
画面に表示された着信先の名前に私は半ば呆れに近い溜め息を吐き出して電源ボタンを押して電話を切る。電話を掛けて来たのは臨也さんだった。セピア色の瞳が愉快気に細められるが見えて思わず手にしていた携帯を投げ付けたい衝動が込み上げた。

「何か御用ですか」

「君だって健康的な一般高校生だ、夕飯時になれば腹が減るだろう?」

唐突に投げ掛けられた質問に私の眉間に皺が寄る。遠回しにタダ飯食らってる私を非難しているのだろうか、だがバイトについてはほんの数日前の聖夜に必ず臨也さんの承諾を得るようにと新たな決まり事を制定されてしまったばかりだ。

「はぁ、まぁ…そうですね」

「今日は曲がりなりにも大晦日、大晦日と言ったら決まって食べるものがあるよね」

「ありましたっけ」

薄い笑顔を貼り付けてなぞなぞを出すかのようにつらつらと言葉を吐き出す臨也さんを適当にあしらって二階へと上がっていく。私何でこんな人の所に居るんだろう、今日は図書館じゃなくて物件見に行こうかな。愛用の鞄に課題と筆記用具を詰め込み、部屋着からブラウスにカーディガン、スカートにカラータイツを履き着替えを済ませる。化粧はあんまり好きじゃないからいいや、と臨也さんに一式揃えてもらったマリークワントの化粧ポーチは机に置いた儘コートを羽織って自室を出ると、椅子を百八十度回転させて視線をパソコンから窓の外へと移している臨也さんの姿が視界に入る。ぐるんと首を回して二階の踊り場に立っている私を見上げた臨也さんは「あるよ」と言った。どうやら先程の会話の続きをご所望らしい。

「何でしたっけ、忘れました」

「思い出してよ」

「急に言われても無理です」

スリッパをぱたぱた鳴らして階段を降り洗面所の扉を閉めれば再び会話は途切れる。櫛を使って猫の毛のように細い髪を梳き寝癖が無いか念入りにチェックする。背中に届きそうな後ろの髪は四月から一度も鋏を入れていない。私が此処に住む為に臨也さんが提示してきた条件の一つであり最も意味が理解出来ない「髪は切らずに伸ばす」を私が律義に守っている為だ。
髪型良し。服装良し。課題良し。財布良し。携帯良し。準備完了だ、洗面所を出て玄関に向かう私の背後から香ばしい淹れたての珈琲の香りと呆れたように私の名前を呼ぶ波江さんの声が聞こえたので、スリッパを脱ぎながら廊下の奥へと視線を向けると二つのマグカップを持って此方を見る波江さんと臨也さんの真っ黒な後頭部が見えた。

「……名前、仕事が進まないから早く答えて頂戴」

「……年越し蕎麦ですねー」

「今から買ってきて」

「お断りすると同時に行って来まーす」

臨也さんが買ってくれた黒のショートブーツを履いて玄関の扉に体当たりする。非力な私はこうしないと扉を開けられないのだ、全くもって情けない話である。ジムにでも通おうかな、とぼんやり考えながらエレベーターに乗って最上階から一階へと下りて行く。狭い金属製の箱の中は毎日乗っているけれど、やっぱりいつになっても慣れない。漠然とした不安感に全身を食い破られそうになる気がしてエレベーターに乗ってある間は自然と呼吸を止めてしまう。

「さむい、」

昼下がりの大晦日。行き交う人々はいつもより数が少ない。さて、大晦日でも空いている図書館はあるのだろうか?無ければ漫画喫茶でいいかと呑気に考えながら新宿駅に向かって足を向けて携帯を開く。もう臨也さんからの着信の邪魔は入って来なかった。

第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -