ぺちぺちと頬を叩かれて深く沈んでいた意識がゆっくりと浮上していき、私は瞼を押し上げた。目の前は広大で薄暗い天井が夜空のように広がっていて、一瞬物質界へ帰って来たのかと考えてしまうものの身体を包む冷気はどう考えても夏真っ盛りの物質界だと考える事は出来ず、此処はまだ氷の女王の城の中なのだという現実を静かに受け入れた。女王と戦闘になってから状況が目まぐるしく変わった為記憶が断片的にしか覚えていない。
女王が雪女を召喚して吹雪を起こして…それからどうしたんだっけ。朧気な記憶を辿りながらふと左手に目を遣ると手全体に真っ赤な血がべったりと付いており真ん中には斜めストライプ柄のネクタイが不格好に巻き付けられていた。そうだ、左手でわざと怪我をして召喚させたフラウロスが何だか物凄い力を貸してくれたんだった。強大な力をもって吹雪を起こしていた雪女すら食らってしまう位の力だった、私に力を貸してあれ位なのだからフラウロス自身もっともっと強い悪魔なのに違いない。そういえばフラウロスは?辺りを照らしていた彼の炎はもう何処にも見当たらなかった。

「名前」

フラウロスについて考える私の思考を遮ったのは聞き慣れたアマイモンさんの声だった。呼ばれる儘に声がする方へ顔を向けるとどうやら私は彼に膝枕されていたらしく、彼は片膝を折って壁に寄り掛かって座っていてもう片方の膝を床と平行になるよう寝かせ其処に私の頭を乗せていた。その為私の視界には窮屈そうに折り曲げられた膝とアマイモンさんの顔が映り込む。彼の名前を囁けば彼は無表情の儘私の脇に手を差し入れまるで等身大の人形を扱うように抱え上げた。

「手は痛みますか」

「アマイモンさんだって…怪我してたじゃないですか…」

「悪魔は治りが早いイキモノなので、もう治りました。ニンゲンはとても不便だ」

アマイモンさんの胸元にはある筈のネクタイの姿が無く、やはり私の手に巻かれたのは彼のネクタイである事が分かった。奇抜な色合いだったネクタイは私の血を吸ってどす黒く変色していて、洗って返しますなんてとてもでは言えなかった。クリーニングに出しても突き返されるだろうこの汚れ、弁償も出来なさそうなので素直に謝る事にした。

「アマイモンさん、ネクタイごめんなさい」

「名前が死なないならネクタイくらい喜んで差し出します」

この悪魔、どんだけ私に懐いてるんだ。真顔できっぱり言い切ったアマイモンさんは無の表情の中でちらりちらりと褒めて、と言いたげな感情を混ぜ合わせてくる。もしかしたらアマイモンさんは甘えん坊なのかもしれない、そう考えながら我が儘ボーイのトンガリ頭を指先で撫でるときゅうと彼の目が猫のように細くなった。

 ・・・     グラキアーレス
「まぐれとはいえ"氷の女王"に勝利したのは事実。要求通り我が城唯一の鍵穴の使用を認める」

最初に会った時のように玉座で偉そうに姿勢を正して座る氷の女王は私がフラウロスの力を借りた事をまぐれと言い切り、その表情は明らかに納得していなかったものの渋々玉座の後ろにある扉に取り付けられた鍵穴を使う事を許してくれた。勝因の殆どを占めるフラウロスが居ない理由を聞けば、私が気を失った後、アマイモンさんが魔法陣の書かれた紙を破り"火の王"イブリースの元へと帰した事を明かしてくれた。お礼を言いたかったのに用が済んだらさっさと帰してしまう辺り、アマイモンさんの我が儘ボーイぶりは通常運行のようだ。
玉座の後ろに回り込み扉の前に立ちながらじ、と扉を見上げる女王はやはりどう見てもまだ十歳位の幼子だった。私の視線に気付いたのか怪訝そうに私を見つめ返してくる様は本当に年頃の女の子で、自分より見た目が年下の子に敬語を使うのは憚るものの私は彼女に問い掛けた。

「女王はこの城に一人で住んでるんですよね。物質界に来たりはしないんですか?」

「物質界の空気は好かぬ。塵芥が舞い人間の好き勝手により豊かな資源が失われていく…私はこの空気の澄みきった"凍る大地"こそが本来物質界のあるべき姿だと思っている」

とどのつまりは物質界は空気が汚れている上に建造物が乱立しているから好きではない、と彼女は主張した。女王は物質界全体が空気が汚れ近代的建造物が連なっていると勘違いしているようだった。
アマイモンさんを助けを求める意思を込めた視線を送ると何故か彼は呑気に「バクダン焼きは兄上もオススメする非常に美味な料理の一つです」と徐ろに日本の食文化について語りだし、女王は「バクダン」に真っ先に火薬が詰まった危険物を想像したのかあからさまにドン引きしていた。違う、違うんです女王、そのバクダンじゃないんです。

「物質界全ての空気が汚れてるわけじゃないですよ。遊びに来てみたら分かりますから」

「…わ、わたしは、」

「冬に来たら丁度良いですよ。かまくらとか作って遊びましょう?力仕事はほら、アマイモンさんがやってくれますし」

僅かに表情を強ばらせたもののかまくらにしっかり興味を示す辺り女王も年頃の女の子だ。にっこり笑って無理矢理約束を取り付けると懐から取り出した鍵を鍵穴に差し込みぐるんと回す。ガチャリと錠が外れた音が響くと同時に鍵がほろほろと砂のように崩れていく中で、アマイモンさんが取っ手の無い扉に手を掛けて少しずつ扉を押し開いていくと城の中の冷たい空気が扉の向こうへと流れていく。開いた扉の先は見慣れた正十字学園内にある噴水が真ん中に設置された緑豊かな広い庭で、噴水の縁にはバクダン焼きの箱を抱えた今回の出来事の元凶であるメフィスト・フェレスが幽雅に座って此方を見つめていた。

「アッ、兄上」

「それじゃあ女王、お世話になりました」

人ひとり通れる隙間にメフィストさんの姿を視認したアマイモンさんを押し込み女王に別れを告げる。女王は少し目を逸らした後小さく馬鹿め、と呟いてそっぽを向いてしまった。
女王の言いたい事は何となく分かったので何も言わずに歩みを進め扉の隙間に身体を滑り込ませて身体の芯まで冷える"凍る大地"の扉から繋がった真夏の太陽が降り注ぐ正十字学園校内から中庭に出るアルミ製の扉によって物質界へと降り立つ。
既に外は夜の戸張が降りていてむわっとした暑さが身体を包んでくる。不快感に眉を寄せながら後ろ手でアルミ製の扉を押して閉めて、それから、私は。

「いやあ、お見事!無事に帰って来れたようで良かった良かげふっ!ごばぶっ!」

「あ。兄上…」

コングラチュレーション!と手から手品のように紙吹雪を飛散させるメフィストさんにつかつかと歩み寄り、無表情の儘スピードを乗せたラリアットを彼の首へと叩き込む。メフィストさんはバクダン焼きを宙に放りながら噴水へと背中から落ちていき、アマイモンさんは突然凶行に及んだ私に目を見開きながらもしっかりと宙を舞う箱をキャッチしてバクダン焼きを一つ、口に運んだ。

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