クモ   カケハシ
 雲 に 梯

叶えられない高望み 



これは嘘のような本当の話。
二組の勝呂くんが家業を継ぐ事を決めたらしい。
勝呂くんはいつもテストで一番だし頭が良い人が集うこの高校にも首席で入った程なのだからまだ高校生なのに家業を継ぐのも分かる気がした。
髪を一部染めているし顔付きが悪いから女子からは敬遠されているが、面倒見は良いらしく男子からの評判は良くいつも志摩廉造くんと三輪子猫丸くんが傍について歩いている。

「でも勝呂くんって実家京都じゃない?やっぱり転校するのかな…蛍はどう思う?」

「知らない。勝呂くんとはクラス違うし」

ざわざわと騒がしい教室の中、親友と二人で昼ごはんをつつきながら他愛も無い話で盛り上がる。その中の話の一つが勝呂くんが家業を継ぐ、というものだった。
京都に行くから転校する、海外に事業展開するから留学だなんて家業を継いだ後の話について色々な噂が飛び交っているが、私は断言出来る。彼は転校しない。

「何でそう言い切れんの?」

「うちのお母さんが主婦兼派遣やってるの知ってるでしょ?一週間前、会社から母さんに住み込みの仕事やらないかって電話があったの」

「へえ。其れで?」

「派遣先は高級マンション。仕事は住み込みメイド。其処に住むのは未成年の男の子、マンションから車で十分で明日オープンの勝呂不動産東京支店…完全に勝呂くんの事だよ…」

つらつらと根拠を並べる私の顔から段々生気が抜けていく。心配そうにどうした?と首を傾ける親友を尻目に私はぐしゃぐしゃと髪を掻き乱して低く唸った。

「仕事の依頼してきた会社にお母さん何て答えたと思う!?私住み込みは無理。でも折角の縁ですしうちの娘でも使いませんか?同い年ですよーとか言って私の事売り飛ばしやがったのよ!これが大丈夫でいられるかぁぁああ!!」

「…勝呂もよくOK出したわね…」

「…二十代から四十代は誘惑してくるかもしれないから無理らしいんだけど、私は同い年だし違うクラスで顔合わせる機会も無いし…。勝呂くんもメイドとして割り切れるって考えたんじゃないかな」

既に五日前から始まった打ち合わせや制服である着物の採寸。礼儀作法から歩き方、皿の出し方等もきっちり習わされていて私はげんなりしている。
正直一ヶ月もせずに辞めると思う。お世話は夕方から夜までだけど、不器用な私にとって地獄の様な時間だ。
この五日間で割った皿の数も瓶の数も数え切れない。髪だって一人じゃ結い上げる事も出来ないし着物も着られない。
作法の先生や関係者の間に徐々に冷たい空気が漂うのを引きつった笑顔で見つめるしか無かった。
どうしてこんな仕事、私に押し付けたんだろう。にこにこ笑いながら大丈夫よお直ぐに慣れるから!と言い切った母とは五日前から絶交中だ。

「あんた昔から不器用だったもんねぇ。…体操服すらまともに着られなかったしね」

「其れは小学校の時の話でしょ…もう、本気で悩んでるんだから」

初日に大きなミスをしてクビにさせてもらえば、とも思ったがそれでは私を紹介した母に迷惑がいく。巻き込まれたとは言え家族に迷惑を掛けるのは嫌だった。
一ヶ月程頑張って働いてみて、勉強との両立が出来ないからと自然な形で辞めてしまうのが一番だと思う。問題はその一ヶ月を乗り切れるかどうかだと思えば胃の上辺りがキリキリと痛くなる。
あたしは蛍の味方だよ!と笑い掛けてくれた親友の笑顔が少しだけ私の気持ちを和らげてくれた。



「それじゃあ、娘を宜しくお願いします」

ありったけの荷物を用意して困らせてやろうと思ったのに、迎えに来た車はダックスフンドかと言いたくなる位長くて私の荷物はすんなりと車に納まってしまった。
スモークが掛かった窓の向こうで運転手に頭を下げる母親が見えた。最後まで母親とは口を聞く気にはなれなかった。履歴書に書けるわよ、なんて言って私の意見も聞かずに勝手に決めてしまったのが許せなかった。
ゆらゆらとリムジンに揺られながら遠くなって行く我が家に静かに別れを告げた。


「君はまだ着物を着れないみたいだからメイド服が支給される。一ヶ月以内に着物を着られるよう練習してくれ」

そう言って私に紙袋を渡したのは長年勝呂家に仕えているという次郎長さん。既に六十を越えていて、雑用から食事まで何でもこなすベテラン中のベテラン。今は主に食事を担当しているのだと言う。
この部屋を作る為だけにマンションを買い取ったらしいと聞き何故か納得した。殆どの壁を砕いて作り直された勝呂くんの新しい家にて割り当てられた六畳程の部屋に私は居た。

ジロチョウ
次郎長さんに渡された紙袋の中を除けば黒を基調としたエプロンワンピースのメイド服が出て来た。その辺りの量販店辺りのコスプレ用のを買えば良かったのに、手触りだけで生地は良いものだと直ぐに分かる。これは迂濶に汚せない…冷や汗を流しながら私は礼を言った。

「君にはまだ食事の世話は無理だし、今日からはまず掃除を頼もう。廊下や棚、洗面台やトイレね」

「分かりました。分からない事があったら誰に聞けばいいですか?」

「織部さんに聞いてくれ。彼女も雑用担当だ」

織部さんは十数人集められた使用人の中でもっとも内気で引っ込み思案な人だ。
他の使用人からはあまり好かれていないが、私は直ぐに仲良くなれた。どうやら私は娘さんと同い年らしい。いつか織部さんの娘さんとも会ってみたい。

メイド服に腕を通し足にタイツを通す。頭にカチューシャ型のヘッドドレスを付ければメイドの出来上がり。これで目の前の鏡に居るのが私だったらなあ、なんて憂鬱な思いを抱きながらまずは廊下の清掃へと向かった。