もう何も考えたくない、そう言って私は目を閉じる。その横で猫又は緩やかに尾を揺らして私を見上げてにゃあんと鳴いた。重い足を動かして居間のソファに寝転がれば何だか全てを忘れられる気がして、ゆっくりと目を閉じた。
「もう死んでますか、兄上」
「いや、眠っているだけだ」
夢を見る事もなく暗い意識の中を漂っていると、ふと頭上から声が降って来る。と同時に私の腹の上に乗って眠っていた猫又がぶるぶると震えだす。そっと目を開くとヨハン・ファウスト五世と名乗った男と彼を兄と呼ぶ変わった髪型の男が私を挟んで対峙していた。
「この女はまだ能力のコントロールがなっていない。お前、虚無界に連れて行き能力の操作の仕方を教えろ」
「ハイ。分かりました」
「間違っても食うなよ。この女は餌じゃない」
「……分かりました」
私と話していた時とは正反対の偉そうな口調で尖った髪の男の人に指示するファウストさんの瞳は、まるで新しい玩具を得た子供のように爛々と輝いていた。
声を掛ける気にも身体を動かす気にもならなかったので黙って二人を眺めていると、ファウストさんが私が起きたのに気付き幽雅にマントに隠れた腕を広げ私を抱き起こした。
グーテンモルゲン
「ああ、おはよう!御機嫌如何ですかな、我が妹よ」
「いも、うと?」
「私が貴方の後見人になりました。これから貴方は私と、このアマイモンの妹となるのです」
小刻みに震える猫又を抱き締めながら優しく頭を撫でるファウストさんを見上げると、先程まで爛々と輝いていた瞳は慈しむような柔らかいものだった。
アマイモンと紹介された変わった髪型の男の人はガリッと口に咥えていた棒付き飴を噛み砕き、私の背中と膝裏に両腕を回しファウストさんの腕の中から掬うように抱き上げた。
「いやはや、ワタクシ可愛い妹が欲しかったのです。感謝感謝ですな。アマイモン、間違っても手足をもいだりするなよ。我が妹は元は人間だったのだ」
「ハイ、兄上。では失礼します」
「名前、次は私の部屋に遊びに来て下さいね」
斯くして私はアマイモンさんに連れられて悪魔の棲み家である虚無界へと連れ去られたのであった。逃げようと藻掻く猫又も一緒に連れて。
「あれから一ヶ月も経ったのか…。よく生きて来られたな、私」
「全くだ、我輩も何回地の王に食べられそうになったか。それに、哀れな少女と契約を交わす事になるとはね」
あれから一ヶ月。虚無界でみっちりアマイモンさんに能力の使い方から戦闘の仕方まで教え込まれた私は、黒に桜の柄が織り込まれた着物に身を包み高い建物の上から正十字学園町全体を見下ろしていた。隣にはずっと私に寄り添っていてくれた猫又が巨大化してはふうとわざとらしく溜め息を吐いた。
私はこれから本格的にこの物質界でヨハン・ファウスト五世改め、メフィスト・フェレス卿の手駒として暗躍していくのだと思うとぞくりと鳥肌が立つ。
「名前」
後ろからアマイモンさんに声を掛けられ振り向くと、フェレス卿に渡すお土産を持ちバクダン焼きを口一杯に頬張りながら据わった瞳で灯りが煌めく町を見下ろした。
「そろそろ兄上の元へ行きましょう」
「はい」
私は人間である事を捨て悪魔である事を受け入れた。そしてそんな私をフェレス卿やアマイモンさんは受け入れ、歓迎してくれた。武器を使いたがらない私の意見を尊重して、地の王であるアマイモンさんの眷族の緑男や土塊を使った防御の仕方を教えてくれた。
適当な扉からフェレス卿の部屋に通じる鍵を使い豪華な部屋へと足を踏み入れる。すると幽雅に紅茶を嗜んでいたフェレス卿が此方を一瞥しカップをソーサーに置いた。しかしその格好は、紅茶に似合わない紫の着物だった。
「お久しぶりです、我が妹よ。やはり私の目に狂いは無かった!」
数日前にフェレス卿から届いた荷物にこの着物が入っていて、丁寧にも着付けの図解まで付いていた。その狙いはこれだったかとぼんやり考えている間に私の手には黒地に紅い金魚が泳ぐ巾着を持たせられ、フェレス卿に腕を取られソファへと連れて行かれる。
「どうでしたか、虚無界での生活は」
「あまり良いものではありませんでした」
「ハッハッハ!正直で宜しい。アマイモン、お前はもう帰っていい」
ソファに二人で座ってテーブルに乗った沢山の和菓子を勧められる。同時にアマイモンさんは帰るよう冷たく言い放たれてしまうものの、アマイモンさんはあまり感情の起伏がないのでその表情に喜怒哀楽は無く私とフェレス卿をじいと見つめている。
「ええと、あの、フェレス卿」
「おや!いけませんね。"お兄ちゃん"と呼んで下さい」
「え!?…えーと、お兄ちゃん…」
「ズルいです、兄上。ボクも名前に兄と呼ばれたいです」
私達から離れて立っていたアマイモンさんがいつの間にか目の前で屈み込み私の顔を覗き込んでいて、思わず悲鳴を上げてしまった。
「名前、ボクの事も"お兄ちゃん"と呼んで下さい」
「うわっ!で、でも二人共お兄ちゃんじゃ聞き分けが…!」
「私は"お兄様"でも構いませんよ」
ソファに乗り上げて来たアマイモンさんに慌てて横にずれると後ろからフェレス卿に抱き寄せられた。混乱しつつ離れようと身体を捩らせるも前からアマイモンさんが覆い被さって来て、もう何が何だか分からなくなってしまった。
「た、助けて!」
ぎゅうぎゅうと二人の兄に挟まれて助けを求めるも、私の傍についていた猫又は離れた場所で毛繕いをしていて聞こえない振りを貫いていた。