もし僕が記憶を失くしたら、君は僕の形をした「それ」に何と話しかけるのだろう。




ツンとする薬品の臭いが辺りに充満している。昔から保健係を押し付けられていたこともあり、このような類いの臭いは比較的好きな方で、懐かしささえ感じることもあるが、今鼻を刺激するこの臭いは僕に不快感しか与えなかった。
壁やベットシーツ、カーテン、そして自分が着ている寝巻までもが白で統一されていて、どことなく息苦しい。
窓を開けて空気を入れるが、気分は変わらなかった。

ドアをノックする音がしたかと思うと、白衣を着た50代位の男がゆっくりと部屋に入ってきた。顔や体型に特徴のない、「これが平均的な50代男性です」と言われてもおかしくないような容貌は、一日見ないだけで次の日には忘れてしまいそうだ。
「忘れる」という言葉に僕の体は大きく反応した。まるでひゃっくりをしたかのように体が小さく跳ねる。そんな僕を見て、その男に緊張が走るのがわかった。
「大丈夫かい?」
「あ、はい、大丈夫です」
一週間前、この男に言われた言葉を思い出す。



「検査の結果、脳が萎縮していることがわかりました。記憶に障害が見られるのも、恐らくこれが原因でしょう」
留三郎に半ば引き摺られるようにしてやって来た、この大きな大学病院で、三時間に渡って色々な検査を受けた後、二人で院長室に招かれて言われた言葉だ。
「脳が萎縮…」
隣に座る留三郎が身を固くする。
「あの、これ治りますよね?」
ここの院長だというこの男は、これといって特徴のない顔に僅かな笑みを浮かべ、落ち着いて椅子に深く腰掛けていた。穏やかとも言えるその雰囲気は、不治の病を宣告するようには見えなくて、「脳が萎縮」と言われてもピンと来なかった。
その時、院長室にいるのは僕たちだけではないことに気付いた。壁に沿うようにして10人前後の若者たちが揃って白衣を着てじっとこちらを見つめている。まだ白衣を着こなせていない、僕と同じような年ごろの彼らはきっと実習生か何かだろう。そのほとんどが、ただこちらを見つめるだけだったが、その中に数人興味津津に目を見開く者もいた。
院長が首を振る。
「わかりません。残念ながら、君の病を治す方法は見つかっていない」
「え…それって…」
「君の病は、現代医学ではまだ解明されていない原因不明の病気です。ただ、放っておいたら記憶はどんどん消えていくでしょう」
院長の口から出た言葉に、僕は黙って隣に座る留三郎の腕を掴むことしかできなかった。留三郎も僕と同じように押し黙っている。
すぐにこれは何かのドッキリかもしれない、と思った。こうして状況を飲み込めず混乱している最中にでも友人たちがドアから飛び出てくるのかもしれない。真っ先に部屋に入ってくる小平太が頭の中に浮かんだ。ニヤニヤしながら「ドッキリ大成功」というプラカードを掲げている。
しかしいくら待っても小平太はおろか部屋に入ってくる者は誰もいなかった。
「もっと時間をかけて検査すれば何かわかるかもしれません。そこで提案なのですが、2、3日入院してはいかがですか?それでしたら早速今日から入院していただきたいのですが」
「ちょっと待ってください。検査はさっき嫌というほど受けました。きっと伊作も疲れているだろうから検査は明日からにしてください」
沈黙を守っていた留三郎が割って入る。院長はそれを見て、落ち着かせるように笑ってみせた。
「大丈夫ですよ、まずはここで十分休んでもらってから検査します」
その言葉通り、結局その日から入院して翌日から検査を開始した。ただ、2、3日のはずだった入院生活は今日で一週間になる。留三郎とはあの日以来会っていない。入院二日目あたりに、僕の家にあるはずだった下着などの生活用品が揃って病室に置いてあって、食事を運びに来た医師が「君と同い年くらいの男の子が預けに来たよ。すぐに帰っちゃったけど」と言っていた。

「一応原因不明の病気だからね。面会は謝絶していたけど君も元気そうだしそろそろいいかな」
冒頭に戻る。僕の様子を見に来たと言う院長がいつもの落ち着いた口調で言った。
「脳が委縮するスピードがとても遅いから、もしかしたらそのうち治療法が見つかるかもしれない。頑張ろう」
「あ、はい、ありがとうございます」
差し出された手を掴んでがっちり握手をした。人づてから毎日留三郎が見舞いに来て追い返されているということを聞いていたが、きっと一番心配しているのは彼だろう。そんなことをぼんやり思いなから、僕はすっかり治る気でいた。だって僕が留三郎を忘れるなんてありえないことなのだから。

早速その日の夕方に留三郎が見舞いに来た。おずおずと病室に入り、「具合はどうだ?」とぶっきらぼうな声で尋ねてきた。
「僕は元気だよ」
それから先程院長に言われたことを伝えた。
「もしかしたら、治療法が見つかって治るかもしれないって」
「そうなればいいな」
留三郎は安心したような低く落ち着いた声を出したが、その表情はどことなく固いままだ。不意に、さっきの言葉を思い出した。
(きっと一番心配しているのは自分じゃなくて、留三郎なんだ)
申し訳なくなって、心の中で「ごめん」と呟いた。口で言ってしまうとなんだか弱気になったみたいでどうしても嫌だった。
留三郎を喜ばせるには、この病を治すことが絶対条件だろう。きっと治る、大丈夫だ。僕の記憶が消えて、留三郎のことも忘れちゃうなんてありえない。
自分自身に言い聞かせるように、反芻する。




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