閉じた瞼の向こうが明るい。窓からは風がそよいで、気持ちのいい朝だ。風に乗って卵の焼ける美味しそうな匂いが漂ってきて半分夢の中にいながらも唾を飲み込んだ。きっと隣の家の住人が朝ごはんの支度をしているのだ。ずっとこうしてまどろんでいたいけれど、僕も準備をしなくては。あれ、そういえば昨日の夜は肌寒かったから窓は閉めたはずなんだけど…

少し強引に目を覚ます。卵の焼ける匂いが窓からではなく、キッチンから漂ってきていることに気付いて、慌ててベッドから飛び降りた。そのままリビングへのドアを開けると、その匂いは一層強くなった。
「おう、伊作おはよう」
エプロンをした留三郎が、さも当たり前のようにそこに存在していた。
「もうすぐできあがるぞ」
留三郎が大げさにフライパンを揺らせてみせる。何も言えないでいる僕を尻目に、華麗な手つきでフライパンの中の卵をひっくり返した。
「何してんだ。顔洗って来いよ」
その言葉にふと我に返り、言われるがまま洗面所に向かった。今朝のようなことはそう珍しくない。いや、よく考えれば珍しいことなのだが…。
家の合鍵を渡すような関係になったのは一年ほど前のことだ。留三郎と僕、そして仙蔵をはじめとする他の四人は幼い頃からの馴染みだった。六人で泥だらけになるまで遊び、いつも一緒につるんでいて、それが何故留三郎に惹かれたのか忘れてしまったが、思春期になったと同時に僕は留三郎への感情が他の人とは違うということに気付いた。そして紆余曲折ありながらもようやく一年前に落ち着いたわけだが、こんなに時間がかかったのは留三郎もまた僕と同じような感情を僕に向けていることに気付いていたからだ。そのつかず離れずの関係が妙に居心地がよくて、お互いに踏み出せずにいた。
晴れて付き合うことになったが、これといって何か変わることもなくマイペースに交際を続けている。強いていえば二人きりのときはごく普通の恋人同士と同じことをする。そのくらいだ。今日のように留三郎が朝から僕の家に来てご飯を作ってくれるというのは、僕が風邪をひいたときくらいのことで、それほど彼に心配をかけてしまったらしい。冷水で顔を洗いながら少し反省した。
疲れもとれたし、昨日のような頭痛もない。ああ、お腹が空いた。

「今日はプレゼンの日だろ、ちゃんと食べろよ」
僕が椅子に座ったと同時に、目の前に湯気のたったオムレツが運ばれてきた。
「…プレゼン…?」
「お前昨日課題終わったって言ってたろ」
そうだ、昨日ギリギリで終わらせたんだった。確か資料は全部USBメモリにいれて、原稿と一緒に机の上に置いてある。早めにバッグに入れておこう。
「そうだね。留三郎は終わった?」
「ああ。小平太はどうするんだろうな」
柔らかいオムレツの中にはジャガイモが入っていた。驚いて声をあげると、向かいに座った留三郎が得意げに胸を張った。
「スペイン風だ」
「留三郎ってこういう所がマメだよね。女の子みたい」
「もっと上手く褒めろよ」
納得行かない様子の彼が幼く見えて思わず笑ってしまった。そういえば、こんな風に笑うのも久しぶりで、頬の筋肉が強張るのがわかる。留三郎はというと笑われているというのにその顔は穏やかだった。安心しているようにも見える。思った以上に心配をかけてしまっていたようで申し訳なくなった。
恋人と言うには少しサッパリとした関係だったが、こんな時に相手からの気持ちを再確認することができて良かったのかもしれない。これぞ「怪我の功名」ではないだろうか。

朝食を済ませ、一緒に食器を片付けた。僕が着替えている間、留三郎はテレビをつけ、天気予報と占いをチェックしていた。
「伊作、今日は夜になると冷えるらしいぞ」
それを聞いて、シャツ一枚で出ようとしていた僕は慌ててジャケットを抱えた。季節の変わり目で、まだ気温が安定しない。僕が調子を崩したのも、たぶんこのせいだろう。
準備を終え、二人揃って家を出て、留三郎が見守ってくれているのを背中で感じながら鍵をかけた。そのまま無造作にバッグの中に入れると、留三郎が顔をしかめる。「そんないい加減だと鍵なくすぞ」という彼の小言をあしらいながら大学へと向かった。こんな日常が幸せで、ずっとこうであればいいと思う。けれどできるだけそんなことは考えないようにしていた。生まれ持った不運体質のせいか、僕の願ったことはたいてい叶わないのだ。例を挙げたらキリがない。ほんの一握りの例外といえば留三郎と付き合えたことや一緒の大学に行けたことくらいだ。「留三郎関係」の願いは上手くのだろうか。少しの期待を込めて、この日常がずっと続くようにと誰にも気付かれないように願った。


他愛のない話をしながら教室へと向かう。次は同じ講義をとっていて、あの四人もいる。教室に入ったとたん、尋常じゃない冷気が僕と留三郎を襲った。聞くところによると、前の講義を受け持つ教授が極度の暑がりで、春先だというのにクーラーをつけたそうだ。
たまらず抱えていたジャケットを羽織り、陽の射す窓際の席についた。何の気なしに手をポケットに突っ込むと、手が何か固いものに当たる。引っ張り出すとそれは昨日見たカードだった。
昨日はこれが何のカードかわからなかったが、今ならわかる。これは僕が留三郎に宛てたバースデーカードだ。留三郎からは誕生日プレゼントは要らないと前もって言われていたが、それが少し寂しくなってしまってせめてこれだけでも、と近くの文房具屋で選別したのだ。
「留三郎、これ、遅れちゃったけど…」
寒い寒いとぼやきながら僕の隣に座った留三郎にバースデーカードを差し出した。留三郎は一瞬固まり、(たぶん昨日のことを思い出したのだろう)それから何もなかったように受け取った。その顔は少し緩み、目元からはいつもの鋭さが消える。
「ありがとな」
「うん、本当は昨日渡したかったんだけど」
「気にするなよ」
目を伏せた僕を見て、留三郎がさりげなく話題を変えた。
「それより原稿とかはちゃんと持ってきたのか?不運だから忘れちゃいました、なんて通用しないぞ」
「原稿…何の?」
「は?伊作、それ本気で言ってんのか?」
留三郎が呆れた顔でため息をついた。しかし、そんな顔をされてもどうしようもない。何のことを言っているのかサッパリだ。眉間に皺を寄せたままでいる僕を見て、留三郎の顔はみるみる硬直した。
「伊作…お前…」
「えっと…思いだせないです…」
おどけたように笑ってみせるが、留三郎の表情はピクリともしなかった。顔が怖いよ、と指摘したかったが、留三郎の纏う雰囲気がそれをさせない。
やがて探るようにこちらを見るだけだった留三郎が、意を決したように口を開いた。
「伊作、病院に行くぞ」



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