「これからもよろしく」


ジャケットのポケットからこう書かれたカードが出てきた。一目見ただけで自分の字だとわかるが、誰に宛てたのかはわからない。カードは掌に収まるサイズだが、しっかりとした材質で、四方を一本のリボンで縁どられている。誰か特別な人へ宛てたものだということは一目瞭然だった。
家を出る時間は迫っているが、このカードが僕の足を地面に縫い付けたように離さない。目をつむり、必死に頭の中を探るが、このカードに関する情報は一つも出てこなかった。その代わり、頭に鋭い痛みが走り、声にならない悲鳴をあげ、その場にしゃがみ込んでしまう。そういえば最近、課題に追われて睡眠を満足にとれていなかった。その課題も、つい今しがた終わったところだ。今日は講義が終わったらまっすぐ家に帰ろう。
これから出かけるというのに、すでに僕の体の節々は悲鳴をあげていて、そんな軟弱にした覚えはないぞ、と無理矢理足を進め、家を出た。不思議とカードに対しての興味はそこでぱたりと途切れ、何も考えぬままポケットに戻す。
歩いているうちに、いつしか頭痛も節の痛みもなくなっていて、体も軽くなった。そうだ、ずっと苦しんでいた課題を片付けることができたのだ。もっと喜ぶべきではないか。


大学の正門を抜け、食堂に入るといつもの馴染みの集団がすぐに目に飛び込んできた。背格好も性格もてんでばらばらで周りより目立っていて、混雑している食堂の中でも見つけやすい。特に示し合わせたわけでもないのに自然と集まってしまうことが僕はとても不思議で、そして何か暖かいものを感じていた。
「おはよう」
一声かけてちょうど空いている席に座る。(小平太の隣で、留三郎の正面だ)「おはよう」「おう」「伊作は午後から授業か!」思い思いの返事が返ってきて、その統一性のなさに苦笑が漏れた。
「なんだ、機嫌がよさそうだな」
斜め向かいの仙蔵が黒いブックカバーの本から目を離し、探るように僕を見る。その横で、留三郎が何か思いついたような素振りをした。「課題、終わったのか?」
「今朝、全部終わらせたよ」
「伊作にしては、やるな」
ストレートなやじが飛んでくる。
「それどういう意味だよ」
からかわれた気がするが、仙蔵は素直に褒めたようでまた本に目線を戻し、それ以上何も言ってこなかった。
「とめさぶろう、コレ」
僕に挨拶してからずっと定食に夢中だった小平太が箸を止め、まだ何か口に含みながら留三郎に小皿を差し出した。小皿の中には煮豆が入っている。
「俺はお前の残飯処理係じゃねえんだぞ。煮豆くらい自分で食べろ!」
留三郎はあからさまに嫌な顔をして、小皿を押し戻すが、小平太も引き下がることなく留三郎の手に小皿をぐいぐい押しつけた。負けじと留三郎も押し返す。小皿は二人の間で小刻みに震え始め、ふとした拍子で中身がこぼれそうだ。長次の低く、静かな笑い声がした。これはまずい。
「今日は留三郎の誕生日だろ!!おめでとう!!だからこれやるって!!もらえ!!」
「何逆ギレしてんだよ!!」
今や双方椅子から立ち上がり、これから一悶着ありそうな剣幕に、周りの学生たちも「何だ、ケンカが始まるのか」と言った様子で好奇な目つきで注目しはじめた。いつもの留三郎と文次郎のケンカなら、仙蔵が軽口を叩いて終わることがよくあり、今回もそんな感じで仙蔵が止めるのを期待して彼に視線を送るが、仙蔵は面倒臭そうに本のページをめくるだけだった。そしてさっきの小平太の放った台詞が大きな塊となって僕の頭に引っかかった。
(あれ?誕生日?)

「今日は、留三郎の誕生日なの?」

食器の音や学生たちの笑い声、食欲を沸かせるような食べ物の匂いがすべて遠くへ行ったような感覚に陥った。まるで、僕と、このテーブルを囲む皆だけ一瞬時が止まったようだ。留三郎と小平太は押し付けあうのを止め、二人で一つの小皿を支えあうという奇妙な格好で僕を見下ろしている。その顔は二人揃って呆気に取られていた。仙蔵と長次、そしてずっと黙々と箸を進めていた文次郎までもが目を丸くして僕を見た。
「おい、お前大丈夫かよ、課題のやりすぎか?」
文次郎が僕の様子を覗いながら、心配そうに尋ねる。その文次郎の珍しい挙動が、自分がどれほどおかしなことを言ったのか気付かせた。そして、じわりじわりと記憶が溢れ出す。親にケータイを買ってもらったその年から、毎年誰よりも早く「おめでとう」と言いたくて0時になった途端に電話をしていた。電話越しの彼の声は、照れを隠すように尖り、そしてたちまち皆でいるときには絶対に出さない優しい声で答えてくれるのだ。ちょうど昨日の夜のような、暖かい風がカーテンを遠慮がちに揺らす、春の夜のことだった。
すべてを思い出して、弾かれたように留三郎を見ると、彼は心配そうにこちらを覗い、僅かな戸惑いが見て取れた。
―そんな目で僕を見ないでくれよ
「みんなさっきから課題って言ってるけど、なにそれ」
死んだような空気の中、小平太が呑気な声を上げた。
「お前、それ本気で言ってんのか?明日提出だぞ」
小平太の一声で、皆途端に僕を見るのをやめ、普段のように時が動き出した。文次郎のあきれた声に、長次のため息。何もかもが普通に戻る。しかしどこかわざとらしい。僕に気を遣っていつも通りにしようとする皆の心遣いはありがたかったが、僕だけ一人取り残されたような気分になった。
「伊作、大丈夫か」
留三郎の静かな声に、取り残されたのは僕一人ではないと気付いた。しかし、まともに留三郎と目を合わすことができなくて、目が泳ぎ、視界が揺れる。
彼は心配してくれているんだ。ああ、僕が世界中の誰よりも先に、君に「おめでとう」と言いたかったのに。ごめん、ちょっと今日は疲れているみたいだ。でも、きっと寝れば治るから。きっと、寝れば治る。
頭の中の僕は饒舌だが、留三郎を前にすると言葉が上手く出てこない。このままでいるとますますおかしくなってしまいそうで、たまらず立ち上がった。十の瞳が一斉に僕に向けられる。
「…伊作?」
「ごめん、なんか調子悪いみたいだ。今日は帰る」
それだけ言い残し、返事も待たずに踵を返した。頭が痛い。追ってくる声も足音もないことに安心したと同時に、少し寂しいと思う自分もいた。


留三郎と出会ってから、彼の誕生日を忘れたことなんて一度もなかったのに。
ああ、頭が痛い。




110930

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