伊作が不味い不味いと言いながらもトマトジュースを飲み続ける理由は、彼の特別な境遇にあった。
今日も伊作はこれ以上ないくらいに顔を顰めさせ、息を止めながら赤い液体を流し込んだ。ゴクリと喉が鳴り、まるで一作業終えたかのような疲れ切った表情をして大きく息を吐き出す。その顔は透き通るように青白く、目の下には何日も寝てないのではないかと思わせる真っ黒なクマが居座っていた。
「うう、不味かった。これ本当に後味が最悪だよね。いつまでも口に残ってる」
ぐちぐちと文句を垂れながら伊作はすぐ側に置いてあったビニール袋からミネラルウォーターを取り出し、口を付ける。既に顔は先ほどよりも生気が戻ってきて肌色が浮き出てきた。
「いっその事トマトじゃなくて他の赤いフルーツとかどうだ?アセロラとかスイカとか」
伊作がしかめっ面でトマトジュースを飲み下す様子を、これまたしかめっ面で見つめていた留三郎が言った。
「駄目なんだよ。見た目が大事なんだ。トマトジュースが一番人間の血に見えるんだよ」
喋る伊作の口からは小さいが人並み外れた鋭さの犬歯が覗く。窓から入ってきた風で、部屋に一筋の光も通すまいと言わんばかりの黒い遮光カーテンがバサバサと音をたてて踊った。
カーテンの隙間からはちらりと日光が覗き、留三郎は今がまだ朝の8時だということを思い出した。光が遮断された伊作の部屋に来ると、時間の感覚が狂ってしまう。
「あ、ジュースと水、ありがとう」
伊作は、半分人間で半分吸血鬼のハーフだ。ハーフというと聞こえが良く感じてしまうが、所詮化け物だ。その化け物の血が、人間の血で薄まり、コウモリが住み着いている大きな城の地下に暮らすなんてことはしなくても良いが、強い日光は避けなければならない。その吸血鬼の血は、伊作が普通に人間生活をしていく上で、どうあがいても変えることのできない遺伝子としてきつく縛りついていた。
例えば、伊作は一日に一回、血と見せかけたトマトジュースをグラス一杯飲まなければならなかった。一日三食、規則的に生活していても、これを飲まなければ立つことすらままならない。普段は夜に街へ出て、トマトジュースを買いこんで冷蔵庫に貯めていたが、今回その冷蔵庫が壊れてしまい、ジュースが全部駄目になってしまったのだ。
今日の朝留三郎が目覚めて、時間を確認しようとケータイを開くと、おびただしい量の伊作からの着信と、「助けて」と一言だけのメールが届いていて、留三郎は慌てて部屋を飛び出した。途中のコンビニで水とトマトジュースを買った。今回のように何らかの形でジュースが駄目になってしまうのは、そう珍しくなかったのだ。
今朝のことをぼんやり回想していると、先ほどまでぐったりとしていた伊作が軽い足取りで留三郎に近づいた。「何だ?」と目で問いかけるが伊作はそれを無視してずいっと顔を寄せた。
その瞬間、留三郎の唇に柔らかいものが押し付けられた。生温かい舌が唇を這い、もっと奥の方へ行こうと留三郎の口内に侵入してくる。同時に鋭い歯が唇に食い込み、留三郎は頭の中で小さな悲鳴をあげた。不可抗力で伊作の両肩をがっしりと掴み、引き剥がすように顔を離す。
「何するんだよ」
歯を突きたてられてじんじん痛む唇を手で庇いながら留三郎は声を荒げた。血が出ている気がして唇を舐めてみると、甘じょっぱいトマトジュースの味が口いっぱいに広がった。
「何ってお礼だよ」
伊作がしれっとした態度で言う。
「お礼の意味、分かってるか?痛かったぞ」
留三郎が自分の唇を指差して抗議しても、伊作は興味がなさそうに目を逸らして、その足は窓辺に向かい、黒いカーテンをそっと捲って外の様子を伺った。
「おい、まだ陽が…」
慌てて止めようとするが、伊作は窓辺を離れなかった。朝の柔らかい光が、伊作を照らしてその白い肌に、もやがかかる。留三郎は、まるで伊作が光と融合してこのまま消えていってしまうのではないかという錯覚に陥り、彼の腕を掴んで引き寄せた。
「目がつぶれるぞ。いきなりどうしたんだ」
ろくに抵抗もせずに大人しくされるがままになる伊作が珍しくて、留三郎はおずおずと問う。伊作は未練がましくカーテンをじっと見つめ、ささやくように答えた。
「光にずっとあたらないままでいると、吸血鬼の血の方が濃くなる気がするんだ。だからたまに光にあたる。トマトジュースを飲んだ後は、尚更」
風に揺れるカーテンから漏れる陽の光を、伊作は羨ましそうに見つめた。その瞳は夜の海のように黒く静かだが、光があたると時折金色に輝く。留三郎はかける言葉が見つからなくて、そっと腕を離してやることしかできず、自分のふがいなさを呪った。
「あ、そうだ、新野先生が渡したいものがあるから来いって言ってた」
伊作がさっきまでの会話はなかったように声を明るくして言う。これ以上この話はしたくないのだと留三郎は悟り、「ああ」と生返事を返した。
新野先生とは伊作のような「ただの人間ではない人間」専門の医者だ。彼が留三郎と伊作の住む街の外れに診療所を設けたお陰で、この街には割と多くの「ただの人間ではない人間」がひっそりと暮らしている。
「きっとアレだと思うよ。満月も近いし」
「ああそうだ、もう少しで満月だった」
留三郎が面倒くさそうに頭をかく。
「君は良いよね、症状が出るとしても月に一回だし」
「冗談言うな。もしかしたら人を殺してしまうかもしれないんだぞ」
脳内で光輝く満月が思い浮かび、留三郎は思わず身震いをした。鼓動が速くなり、手のひらで強く胸を押さえる。
彼もまた、人間と人狼の間にできた、「ただの人間ではない人間」なのであった。
「ねえ、今夜お散歩しようよ」
昼間は自室で大人しくする伊作であったが、それが夜になると水を得た魚の様に活動的になる。規則正しい生活をしている留三郎にとって夜のお散歩は体に堪えるものであるが(伊作の言う「夜」とは真夜中の2時過ぎのことなのだ)横を歩く伊作の元気そうな姿を見るのが好きなので、文句も言わずに付き合っている。
「そうだな」
鼓動がまだ高鳴っている。満月が近い。




110721



(学パロまたはトンデモ設定:しろのさん)
リクエストありがとうございました。
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