夜明けまで雨が降っていた影響で、裏山は露に濡れ、青くさい匂いが立ち込めていた。決して良い匂いとは言えないが、そこには確かな命が息づいていて、僕もまた生きているのだと感じさせてくれる。
「乱太郎、ぬかるみには気をつけろ」
僕の少し先を行く、小さな背中に声を掛けた。「わかってますよ、先輩も気をつけて下さい」すぐに返事が返ってきた。思わず苦笑が漏れる。

薬箪笥の薬草が減ってきている。確か、保健委員総出で薬草摘みに出かけたのが、雪が解けて直ぐのことだったので、そう考えると薬草の減りは当然のことだった。急いで調達したいほど減っていたわけではなかったので一人で裏山に向かっていたら偶然乱太郎と会ったのだ。いや、見つけたと言った方が良いのかもしれない。乱太郎は、庭に作られた落とし穴にはまっていた。恐らく、彼がはまっていなかったら僕がはまっていただろう。
穴から引っ張り上げてやると健気にもお礼に薬草摘みを手伝うと名乗り出てくれた。お礼を言いたいのは僕の方なのに。
「う、うわっ」
ぼんやりと記憶を辿っていたら、地を這う蔦に足を取られ、バランスを崩し、湿った土の上に手と膝をついてしまった。
「先輩、大丈夫ですか!?」
前からにょきっと小さくて柔らかい手が視界に入り、僕の肩に触れる。
「ごめん、大丈夫だよ」
微笑みを作ってみせると乱太郎は安心したように引き攣っていた顔を崩し、また前を向き直り裏山の勾配を登りはじめた。
僕は彼とは反対方向の、元来た道を振り返る。
(誰かに後をつけられている…)
きっかけは今さっきの、僕が転びかけたときだ。その瞬間、後ろの木が、大きく軋んだ音がして、またすぐに消えた。その音の消え方がどうも作為的で、まだ耳に残っている。まるで、僕が転んだのに驚いて、思わず力んで木を軋ませてしまい、その音を慌てて消したようだった。
音のした方に目を凝らすが、若々しい緑が生い茂っているだけで、異常は見られない。裏山は静まり返っていて、まだ寝ているようだった。しかし確かに僕と乱太郎以外の何者かの存在が、そこにあった。
(雑渡さん…?)
すぐに闇の色をした忍装束が思いついたが、こんな迂闊に音を出したり、気配を完全に消すことができないわけがない、とその考えを一蹴する。
「どうしたんですか?さっきので怪我でもしちゃったんですか?」
もうずっと先を進んでいると思っていた乱太郎が後ろから僕の顔を覗き込んだ。
「いや、なんでもないよ、行こうか」
殺気は感じられない。乱太郎に無駄な心配をさせたくなくて、足を前に進める。ぬかるみのせいとは思えのない程、足が地面に深くめり込んだ。初めは何が起きたのかわからなかった。急に足元が崩れ、体ごと地中に吸い込まれる。後ろの木の軋む音が、先ほどよりも大きく裏山に響いた。
「伊作先輩!!」
乱太郎の甲高い叫び声が僕を引き留めるように耳を突き、それと同時に、乱太郎のとは思えない、力強くて大きな手が、僕の手首を捕えた。
「食満先輩!!」
上の方からよく知った気配と、彼を呼ぶ声がする。大きな手に掴まれて宙ぶらりんになった僕の体の遥か下には、闇が口を開けて僕が落ちるのを今か今かと待っていた。
「深い落とし穴だ。乱太郎、危ないから下がってろ」
手首を一層強く握られ、体が徐々に地上へと引き上げられた。じっとしていた方が良いと思い、大人しく上を見上げるが、逆光で彼の姿がよく見えない。ただ、僕に繋がれた手ははっきりと目にすることができた。血色の良い男らしい手は、今は力んで真っ白になっている。
僕はゆっくり、じわじわと引き摺り上げられた。装束は泥に汚れ、その汚れっぷりはいっそ清々しいほどだ。そして、僕を地中から助け出してくれた留三郎も負けず劣らず泥で汚れていた。
「ありがとう、留三郎」
「全く、俺がたまたま通り過ぎてなかったら不運どころの騒ぎじゃなかったぞ」
留三郎が大きなため息をついて地面にどっかりと腰を下ろした。それを見た乱太郎が「汚れますよ」と口をはさむ。
「こんな泥だらけになったら一々気にならないな」
「それより留三郎、君もここに用事があったの?」
「ああ、学園長先生のおつかいの帰りで、ここが近道だったんだ」
その言葉に、思わず口を開きかけたが、乱太郎の「奇跡ですね」と言う声を聞いて、口を噤む。
「またどこにこんな深い穴があるかわからないから、今日はもう帰るか」
「えー、まだ薬草摘んでないのに」
留三郎の提案に乱太郎と一緒になって不平を洩らすが、僕と留三郎の汚れた装束を見て、すぐに止めた。急にしおらしくなった僕を見て、留三郎が困ったように笑う。(口角が1mm上がってたからたぶん笑ったと思う)
帰り道は下り道で、乱太郎と二人揃って足を滑らせたりしたが、その都度留三郎が支えてくれたり滑り落ちる僕を捕まえたりしてくれた。無事に裏山を下り終え、留三郎がいなかったら今頃どうなっていたのだろうと思い、胆が冷える。

「じゃあ、また梅雨が明けてから行きましょう」
「そうだね、今日はありがとう」
小さな未来の委員長を部屋まで見送り、泥を落とすために井戸へ向かった。途中で文次郎にバッタリ遭遇し、「こんな歳になっても泥んこ遊びかよ」と囃され、頭に血が上った留三郎を半ば引き摺るようにして進む。僕はもうくたくただというのに、この元気はどこから湧いてくるのだろう。

「あ、そういえばさっき後をつけられてたみたいなんだけど、留三郎は裏山で人影を見なかった?」
まだ少し抵抗する彼の首根っこを掴みながら問いかける。
「見てないな。俺たち以外誰もいなかった気がするぞ」
「ふーん、なんか僕が転びそうになったりしたらすごく反応してたんだよ。助けようとしたのかもね」
「へえ」
掴んだ手を離すが、文次郎にからかわれたことはもういい様子で、大人しく僕の隣を歩く。
その留三郎の何気ない感じを装っているのが白々しくて、腹の中でこっそり笑った。


(今日は、ずっと僕たちを見守ってくれてありがとう)

―君の嘘は見抜けるって前に言ったはずなのに、彼は覚えてないのだろうか。



110630



(留伊で伊作に超過保護な留三郎:夢海音湖さん)
リクエストありがとうございました。
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