「全国的に青空が広がり、清々しい陽気となるでしょう。にわか雨の心配はありません」
確か今朝見た天気予報はそう言っていたはずだ。にこやかな笑顔でお天気お姉さんがそう言っていたのを覚えている。
「留三郎、今日は何時に帰ってくるの?」
これは伊作が言った。俺の向かいに座ってムシャムシャとレタスを頬張る姿が頭の中に甦る。
「うーん、たぶん定時で終わると思うんだけどなあ」
結局の所、退勤ぎりぎりの時間に仕事を押し付けられ、定時に帰ることは絶望的になった。おまけに、昼過ぎから雲行きが怪しくなり、夕方頃に待ってましたと言わんばかりに土砂降りのにわか雨が降り出したのだ。
分厚い書類を抱えながら窓の外を見て悪態をつきそうになるのを必死で堪える。しかし俺に残業を押し付けた上司が「参ったなー傘持ってないよ」と言ったのを聞いて、少し憂さが晴れた。そのすぐ後に、自分も傘を持ってきていないことに気づき、更に落胆することになったが。

最近ずっとこの調子だった。連日、帰る時間は夕飯時をとっくに過ぎていて、帰って食べて風呂に入って寝て、起きてまた仕事へ行くというペースで、伊作との時間はほぼ無いに等しい。せっかく一緒に住める部屋を借りたのに、これじゃあ意味がない。
「食満くん、手が止まってるよ」
「あ、すいません」
余計な所で目敏い上司が、俺を苛立たせた。元から積っていた小さな不満と相まって、思わず書類を扱う手が乱雑になり、端に小さな折り目を作ってしまった。
「あーっ!!それ大事な書類なんだよ!!何してくれてんの!!」
上司が俺の手から書類を抜き取り、大袈裟に顔をしかめた。これはまずい、残業の量を増やされるかもしれないと思ったが、上司の口から出た言葉は、全くの予想外なものだった。
「しょうがないな、疲れてるなら今日はもう帰っていいよ」
「…は?」
「疲れてるんでしょ、帰りなよ」
連日、ありえない量の仕事を押し付けてきていた上司の台詞とは思えなくて、喜ぶこともできずに椅子に座ったまま硬直してしまう。
「え…それともまだ仕事がしたいの?」
その言葉を聞いた途端、反射的に立ち上がった。お疲れ様です、と短く告げて、そそくさと会社を後にした。

会社から駅へは幸いにも地下道が通っているため、雨に濡れずに済んだ。問題はその後だ。電車から降りて最寄駅に着いても依然として雨は降り続けていた。しかも、夕方会社の窓から見たときよりその勢いは増している。伊作に電話しようとケータイを開けて、またすぐに閉じた。昼は大学院に通っていて夜は二人分の家事をこなしていることを考えると、傘を持ってないから迎えにきてくれなんて言えるわけがない。
仕方がないので駅前のコンビニに行くことにした。今こうしている間にも、俺のように朝の天気予報に騙されたサラリーマンたちが極力濡れないように足早にコンビニへと駈け込んでいた。傘を忘れて出先のコンビニでビニール傘を買うことは今月に入って既に三回目になる。
とりあえずコンビニへ向かおうと駅構内を歩き始めるが、改札の近くに佇む人影を目が捉えた。特別目立つ格好をしているわけではなく、こちらに背を向けて立っているだけだったが、姿勢や背格好が伊作に似ていた。パーカーのフードをかぶっていて髪は見えない。手には比較的新しいビニール傘を持っていたが、何故だか彼の全身はびしょ濡れだった。
「伊作?」
恐る恐る背後から声をかけてみる。伊作と同じような背格好の人はたくさん街に溢れているが、傘を持っているのに濡れ鼠になっているなんて伊作しか考えられなかったのだ。
「あ、留三郎、おかえり」
案の定、振り返った人は伊作の顔をしていて声も伊作だった。全身が濡れていることを意にも返さずあっけらかんとしている。
「どうしたんだよ」
どうしてここに居るんだ、そしてどうしてびしょ濡れなんだ。と二重の意味を込めた。
「今日定時で帰って来るって言ってたろう、だから迎えにきたよ」
なぜびしょ濡れなのか言わない辺り、本当にこのことについては気にしていないようだった。きっといつもの不運で片付けてしまったのだろう。不運な目に遭っていちいち嘆いていたら身が持たないと昔本人が言っていた。
「今日はカレーを作ったからね、早く帰ろう」
「ああ、ありがとな」
伊作に目で促され、のろのろと歩き出す。駅の構内を出る直前に伊作が傘を広げた。ついこの間俺がコンビニで買ったもので、一人で使う分にはかなり余裕のある大きさだ。しかしさすがに男二人が並んで入るとなると窮屈だ。
少し人の目が気になるが、伊作が一つの傘で帰りたいと望んだなら、と思い大人しくそれに従った。伊作の広げた傘に入って、傘の柄を彼の手から奪い取る。すかさず、僕が持つよ!と横から声が上がったが、聞こえない振りをして足を進めた。
伊作は既に濡れているが、できるだけこれ以上濡らさないように傘を伊作の方に傾けた。傘の柄を持つ左腕が、伊作の右腕に重なる。じわりと水分がスーツに染みた。
「おい、お前なんでこんなに濡れてるんだ」
たまらず聞くと、伊作はなんのこと?と聞き返してきた。それから一呼吸置いて、ああ、そうだ。と水分の染みたパーカーに触れる。
「信号待ちしてたら車に水ひっかけられちゃってさ」
「それはひどいな」
染みた水で左腕が冷たい。全身に水をかぶった伊作はもっと冷たくて寒い思いをしているのだろう。そう思うと自然と足が速まった。
「あ、そうださっきカレーを作ってたんだけど」
気持ち速めに歩こうとしたが、伊作はいつも通り、いや若干いつもより遅いペースで歩を進めていた。仕方なく伊作のペースに合わせる。
「なんだ?」
「いつまで煮ても水っぽいんだよ。ルーもちゃんと入れたのに」
「タマネギの量が少ないんじゃないか?」
「あ、そうか」
「じゃがいものでんぷんも良いって聞いたことあるぞ」
「なるほど」
じゃあ帰ったら整えないと、と伊作が小さく言った。
いつの間にか家のすぐそばの横断歩道まで来ていて、信号が赤になったので足を止める。目の前に大きな水たまりがあった。遠くからトラックが走ってきている。
「留三郎、危ない!!」
ふいに伊作が大声を出して俺を横に引っ張った。何が起きたのかよくわからない俺の顔に、冷たい水が容赦なく襲いかかってくる。
「うわっ冷てえ!!」
気付いたら隣の伊作のように全身に水をかぶっていた。その横を、トラックがのっしりと通り過ぎる。
「あーあ、お揃いだ」
軽く放心状態に陥っている俺を見て、伊作が軽く笑った。
「なんだよこれ、どうしてくれんだよ…」
信号が青になった。もう傘をさしている意味はないと思ったが、なんとなくそのまま二人で歩調を合わせて歩き出す。
「そういえば二人揃って家に帰るのって久しぶりだね。こうやって一緒に外を歩くのも」
「…ああ、そうだな」
スーツが水を吸って重い。これが一人だったら今すぐにでも走って家に帰るところだ。しかしそんな気にはなれなくて、相変わらずゆったりとした伊作のペースに合わせている。
さっきは冷たいと感じていた伊作の右腕が、今はじんわりと温かい。



110612



(現パロならなんでも:紫里さん)
リクエストありがとうございました。
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