車の走行音、人々の雑踏の中の喋り声や靴音、風の音。街には色々な音が溢れていた。気を紛らわそうと、こうして足の向くまま街に出てきたわけだが、街の喧騒は良い意味で俺を飲み込んだ。誰も俺を気にすることなく思い思いの人と喋りながら歩いていたり、一人で散歩をしているような人もいる。
不思議と、その喧騒を聞いていると心が洗われるようだった。先程までわけもわからずふらふらとしていた心は平静を取り戻し、今は静かに沈んでいる。街のざわめきに癒される日が来てしまうとは思いもよらなかった。

無意識の内にその足は大学へと向かっていた。大学の敷地内のずっと奥、その外れに重厚な造りをした図書館と、その周りを覆う大きな木々たち。そして木の下のベンチには暇を持て余した学生たちが腰をかけている。
長次はすぐに見つかった。俺が彼と話した、同じベンチに腰を落ち着かせていた。

「長次」

近くまで寄って、名を呼んだ。先程と同じように隣には十分なスペースがあって、文庫本は閉じられていた。本の上に栞を乗せ、さらにその上に手を重ねて、長次の目は真っ直ぐ前を見据えている。もしかしてずっとここにいたのか、と小さな疑問が湧きあがった。
長次はちらりとこちらを一瞥し、またすぐに目線を前に戻した。その隣に座った瞬間、緊張の糸のようなものがプツリと切れ、溜まっていた疲労感が襲いかかり思わずうなだれる。先程のことがフラッシュバックした。記憶の中で伊作が申し訳なさそうに口を開く。「ごめん」

「駄目だった。ごめんって言われた」

隣からは物音一つしない。しかし長次はちゃんと俺の話を聞いてくれている気がした。

「もう前みたいには戻れないんだよな。友達としてでは結構いいとこまで行ったんだ。告白する前、伊作が一緒にソファーを買いに行こうって誘ってきたんだ」

やはり、あそこが分岐点だったのか。あの時、告白せずに大人しく伊作の提案に従っていれば、きっとこんなみじめな思いはせずに済んだはずだ。
どっと後悔の念が押し寄せたが、あの時に戻ってやり直したいかと聞かれたら、きっと俺は「いいえ」と答えるはずだ。後悔はしている。でも告白をして良かったとも思っている。矛盾しているが、それが俺の今の素直な気持ちだ。
顔を上げると長次が疑問を孕んだ瞳で俺を見ていた。至近距離で見られると迫力が増す。

「伊作が、お前を買い物に誘ったのか」
「ああ、そうだけど」

長次が再度前を見つめ、彼にしては珍しい、意味ありげな顔をした。俺はわけがわからず、頭の上に「?」マークを浮かべることしかできなくて、長次が再び口を開くのを待った。

「きっと、今の状況は、お前が思ってるより絶望的ではない」
「、どういうことだ…?」
「私は伊作に買い物に誘われたことはない」

それだけ言い残すと、長次はのそりとベンチから立ち上がる。どこ行くんだ、と聞いたらもう帰ると低く小さな答えが返ってきた。
そういえば、空が段々と暗くなり始めていてこっそり夜を迎え入れていた。この時間帯は、本来ならば伊作の作った惚れ薬を飲まされいる頃だ。「帰らなくては」と反射的に立ち上がったが、すぐに無駄なことだと悟る。俺は伊作のことを好きになってしまった。それでは実験が成り立たないのだ。

腹の虫が空気を読まずにマヌケな音を出した。(帰ろう)あまり乗り気ではないが。


駅を出て、すぐ目に飛び込んできたのは、いつぞやの家具屋だった。「インテリアショップ」という文字が、ハイセンスな字体で飾られていて、ガラス張りの窓から覗える家具たちをより一層引き立てている。最近目に留まった白いソファーベットは未だ一番見えやすい場所に陣取っていた。目が痛くなるほど綺麗な白いソファーベットも、もう苦い思い出の一部だ。俺がぼんやりと外から眺めていると、見かねた店員が「気になるようでしたら座ってみてはいかがですか?」とわざわざ店から出てきて親切に問いかけてきた。

「いや、いいです」

逃げるようにこの場から去った。無愛想な客だと思われたかもしれない。


アパートが遠くからぼんやりと見える距離まで近づくと、俺は小さな異変に気付いた。アパートの駐車場に誰かが座り込んでいる。明るい茶色の髪が、夜の闇に浮かんでいた。見間違えかもしれないと思い、数回瞬きをしたがそれは幻ではなく確かにそこに存在していた。鼓動が早くなり、それにつられて足の運びも早まった。

「伊作、何してんだ」

俯いていた青年が、こちらを見上げる。それからゆっくりと立ち上がって不器用な笑みを投げかけてきた。

「やあ」

思えば、伊作と外で会ったのは初めてのことかもしれない。俺は前まで伊作が外にいるという瞬間が想像できなかったが、いざこうして見ると違和感がない。もし昼に遭遇していたら話が違ってたかもしれないが。

「えっと…おかえり、留三郎」
「…ただいま」
「君に言いたいことがあるんだけど」

気まずい空気が流れた。伊作は一体、俺に何を言いたいのだろうと思索する。「振ったけど、友達として仲良くしてほしい」とか、そんなパターンだろうか。
伊作の手は忙しなく動いていた。服の皺を伸ばし、シャツの袖の調節をして、前髪を整える。俺の視線に気づくなり、曖昧に微笑んで、覚悟を決めたかのように顔を強張らせた。

「あの、昼間はあんなに取り乱してごめん。何しろびっくりしたんだ」
「いや…俺こそいきなりで悪かった」
「いいんだよ、謝らないでよ。違うんだ、嬉しかったんだよ」

伊作の思いがけない言葉に、頭が軽く混乱した。(嬉しかった?なぜ…?)

「僕も留三郎のことが好きだ」

夜風で伊作の髪が楽しそうになびいていた。
脳が一瞬停止して、またゆっくりと動きはじめる。

「…あんなに嫌がってたじゃないか」
「だからびっくりしたんだって。まあ、あの時は君が好きって自覚してなかったけど」
「流されてるってことはないよな…?」
「違うよ、留三郎の部屋から逃げてきて、もう君と会話したりご飯を食べたりすることができなくかるんじゃないかって思ったら怖くなった」

“そして、君の告白に喜んでる自分がいることに気付いたんだ”
伊作の科白がまるで他人事のように聞こえてくる。

「そ、その会話とかご飯ができなくなることに怖くなったのは友達に対する感情でもおかしくないだろ」
「そんなに僕の気持ちを否定したいの!?僕の気持ちは僕にしかわからないだろう?僕はどんなに大事な友達でも、こんな思いは抱かなかった。できるだけ一人でいたかったし、一緒に外へ出かけたいと思ったのも君が初めてだよ」

数時間前の長次の顔を思い出した、俺が伊作から買い物にさそわれたと言ったら不思議そうな目をしていた。

「それで、君は僕のことが好きで、僕も君のことが好きってことは僕たちは恋人同士になったって解釈して良いんだよね」

一度壊れた想いが段々と形を成してきた。「恋」とは儚いものだ。しかしきっかけがあればすぐに甦る。

「ああ、そうだな」

半ば夢見心地で呟いた。絶望に近い感情を抱いていた分、突然舞い込んだ吉報に上手く対処しきれない。もしかしてこれは夢なんじゃないかと思い、空を見上げた。
星が遠慮がちに瞬いている、いつもの見慣れた夜空だ。その夜空の下から、もくもくと黒い煙が立ち上っていることに気付いた。出所を目で追うと、見慣れた場所に行きつく。

「おい、伊作!!換気扇から煙が出てるぞ!!惚れ薬が焦げてるぞ!!」

慌てて伊作を小突くが、彼はどうでも良い様子で俺の隣で同じ様に夜空を観察していた。その態度に拍子抜ける。

「ああ、もういいよ。もう飽きちゃったし。それに惚れ薬なんてものは存在しない方が良いんだ。飲んだ瞬間好きになるって…つまらないだろ?」

散々人を実験台にしたくせに、と思わず口を突いて出そうになったが堪えた。

「留三郎、夏目漱石って知ってる?」
「え?一万円札の人だっけ」
「違うよそれは福沢諭吉。それにしても今日は月がきれいだね」



−終−

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110522

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