昔、「I love you」を「月がきれいですね」と訳した偉人がいた。そのことを知った俺はまだ中学生だったが、ガキなりに感心したのを覚えている。そのころから、当時思春期真っ最中だった俺は「恋」に幻想を抱くようになった。「恋」とはその昔、どっかの誰かさんが訳した言葉のようにロマンに溢れていて、幸福で、儚いものである、と。
その幻想は年をとるにつれ薄れていったが、今なら迷わず一蹴できる。
いつの間にかありえない人を好きになっていて、全然ロマンなんて溢れてない。幸福でもない。むしろ苦しくて、怖い。
唯一、儚いという点においては同意する。自分の思いを相手に断られてしまったらお終いだ。「恋」は拒絶され、実ることなく壊れる。

自宅に帰ったのは昼過ぎだった。意気込んで午後の授業をほっぽってきたはいいが、どうすればいいのだろうか。まず、俺が伊作の部屋に行って、違うか、伊作を俺の部屋に呼んで、それから思い切って、いや、最初はくだらない話をして場を和ませる。それから、

「あれ?留三郎いたの?」
「ひっ」

振り返ると玄関に伊作がいた。たった今来たようで、よれたサンダルを脱いでる途中だ。昨日長次からもらったと思しきカップラーメンを持っている。自分の部屋なのに「いたの?」と聞かれるのはおかしいな、と思ったのと同時に、突然の伊作の来訪に心の中でひどく狼狽した。こいつはいつも、悪い意味で絶妙なタイミングでやってくる。

「午後が休校になったんだ。それより、なんか用か?」
「うん、お湯を借りようと思ってさ。お腹すいちゃって」

そう言うなりそそくさとキッチンに置いてあるポットに手をかけた。伊作がこちらに背を向け、熱心にお湯を注いでいるのを良いことに、深く深呼吸をする。

(まずはくだらない話で場を和ませる)

「そういえば留三郎、」

俺が口を開いた途端、伊作の方から話題を振ってきた。俺は必死に顔を作って何食わぬ顔で答える。

「なんだ?」
「僕のソファーがとうとう壊れちゃったんだよ。新しいのを買いたいから一緒についてきてくれないかい?」

これは正式な伊作からのお誘いだ。きっとこのまま何も言わずにいたら仲の良い友人の様に二人揃って出かけて、あの家具屋でソファーを選んで、あの喫茶店で休憩したりなんかして、友人として仲を深めることができるのだ。
先程まで頑なだった決心がぐらりと大きく揺らいだのが自分でもわかった。
(よく考えろ、それは幸せかもしれないが、俺の求める幸せとは違うはずだ)
結果的に、伊作のこの提案が俺を揺さぶり、急かしたのだ。

「なあ、伊作」
「うん?なに?」
「俺はお前が好きだ」

それは障害に邪魔されることなく、自然と口から出た。あれほど悩んで苦しんだのに、言葉にするのはあっという間だ。言葉は、まるで「おはよう」と挨拶したかのように自然と部屋に溶け込んだ。

伊作は丁度お湯を入れ終え、キッチンタイマーをセットしている途中だった。口が僅かに開いていて、その手からキッチンタイマーが転げ落ちる。

「え…?あ、うそだろう?」
「うそじゃねぇよ」

本心は今にも「ああ、うそだ。ちょっとからかっただけだ」と言いたかった。伊作の顔からはありありと困惑の色が見て取れたからだ。喜んでいない。伊作は明らかに俺の告白に戸惑っていた。

「あ、わかった!僕の作った惚れ薬だ!きっとそのせいで、」
「違えよ。試作品はもって30分程度なんだろう?今何時だと思ってるんだ」
「いや、もしかしたら分量を間違ちゃったのかもしれない。きっと試作品を作るより先に完成品を作っちゃったんだよ!」

伊作はどうしても俺が伊作を好きだということを認めたくないようだった。明らかに動揺していて、言動が支離滅裂だ。無理もない、これから友好な友達関係を築こうとしていた人に(しかも男に)告白されるなんて思ってもみなかっただろう。罪悪感で胸が痛くなる。しかし、こんなにも想いを頭ごなしに否定されて腹を立てている自分もいた。

「なんだよお前はさっきから惚れ薬惚れ薬って。それ以外頭にないのかよ」

(俺がどんな気持ちで想いを伝えたと思ってんだ)
以前から心の奥で燻っていた不安や嫉妬などの負の感情が頭をもたげ、怒りへと変わっていく。心臓が締め付けられたように痛い。
じわりと伊作の方に一歩足を踏み出したら、伊作は肩を震わせ、後ずさった。その反動で、テーブルの上に置いてあったカップラーメンがずり落ちる。

ぐちゃっと不快な音がして中に入っていた麺とお湯がフローリングに溢れ出た。そこでふと我に返る。壁に背を向け、身構える伊作と、伊作の方へじわじわ詰め寄っている自分。(これじゃあ伊作を追いつめてるみたいじゃないか)

「ごめん」

俺より先に伊作が口を開く。

「ごめんごめんごめん」

一体何に対しての「ごめん」なのだろうか。床を汚したことについての「ごめん」?それとも俺の気持ちに対して?
まるで堰を切ったかのように伊作の口からは休むことなく謝罪の言葉が吐き出された。

「ごめん、本当にごめんよ、留三郎。ごめんなさい」

ぼんやりと、伊作のごめんは両方のことに関してだと脳が理解した。

「嫌だ、わかったから、もう何も言うな」

溜まらず、伊作の言葉を遮る。伊作はまるで徹夜明けのような、ひどく疲れ切った顔をしていた。充血していて、今にも泣き出しそうだ。
伊作はもう一度「ごめん」と残して足早に部屋を後にした。ドアのしまる音がいつもより一層重々しく頭に響いた。



→最終話

110522


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