あの後、どうやって自分の部屋まで帰ってきたか記憶が曖昧だ。とりあえず、残念そうにしていた伊作に適当に挨拶をして逃げるように玄関へ向かったのは覚えている。それからの記憶がほとんどないのだ。
俺が色々と考え直す暇もなく、いつの間にか短い夜は明けてしまっていた。
念のため、朝起きてまず、自分の気持ちを見つめなおしてみる。しかし伊作への感情は昨日の夜となんら変わりはなかった。やはり、惚れ薬のせいではない。俺は本当にあいつのことが好きなのだ。

今朝のことはまだ記憶に新しい。
伊作に対しての感情を自覚した俺は、自分でも驚くほど彼に自然に振る舞うことができた。長次が昨日持ってきてくれた卵でオムレツを作り、丁度良い頃合いに伊作を起こしに行き、寝起きの悪い彼に小言を言ったりもした。オムレツを食べながら、テレビを見て、大物芸能人夫婦が離婚したのを知って、二人で驚いてみたり、しまいには「じゃあ行ってくる」と爽やかに挨拶をして家を出た。
薄々自分の気持ちに気づいていた俺は、伊作のことが好きだという事実を、冷静に受け止めることができたのだ。
こうやって意識することなく自然に接していれば、伊作が俺の気持ちに気づくことはまずないだろう。

(でも、それでいいのだろうか)

「好き」という感情は決して綺麗なものだけではない。独占欲とか嫉妬とか醜い一面も孕んでいるのだ。そして今現在、俺もそんな醜い欲を持ち合わせている。昨日長次に嫉妬したし、できれば他の人と仲良くしないでほしい。思いを伝えて、恋人同士になりたいという欲も正直ある。
しかし伊作の気持ちを考えると、その欲は風船の空気を抜くように一気に萎んでいった。

第一に、俺を実験台にした理由は、伊作に恋愛感情を抱くことはありえないと見込まれたからだ。それなのに、「好きになっちゃいました」なんて軽々しく言えるわけがない。伊作は驚くし、混乱するだろう。

(拒絶されるかもしれない)

正直な所、拒絶されるのが一番怖かった。拒絶され、軽蔑の眼差しで見られるのが恐ろしい。伊作の温厚な性格からして、酷く拒絶されるなんてありえない、と自分に言い聞かせるが、今回は特例なのだ。だって、男が男を好きになって、それで拒絶されない方が珍しいだろ。

「なんだ、元気がないな」

後ろから何かずしりと重たいものが後頭部に当たった。振り返ると、どこか澄ましたような顔をした、仙蔵がいつに間にかすぐ後ろにいた。その左手には分厚いドイツ語の辞書を携えている。
「辞書で頭を叩くな」と言ってやりたかったが、生憎、今はそんなことを言っていられる余裕がなかった。振り返っただけで何も言わない俺を見て、仙蔵が大げさに眉を吊り上げる。

「本当に元気がないんだな、カノジョにでも振られたのか」
「違えよ、ちょっと黙っててくれ」

元はと言えばコイツがちゃかしたから、いや、コイツのお陰で自分の気持ちに気づくことができたんだ。ここはお礼を言うべきだろうか。

「おもしろくないな。文次郎もレポートばかりやっているし、イジメがいのある奴はいないのか」

文次郎というのは俺と仙蔵と同じ学部の、もう兎に角ウザい奴だ。俺達は高校からエスカレーターでこの大学に入学し、三人とも三年間同じクラスだったのだが、文次郎とはその頃から馬が合わなかった。今も、できるだけ関わらないようにしている。

「レポートってことは図書館にいるのか?次の時間が空きだから行こうと思ってたんだけど…やめるわ」
「いや、コピー室にいるぞ。なんでも参考資料におもしろいレポートがあったらしい。それをコピーしたいそうだ」

仙蔵がつまらなそうに辞書を弄び始めた。相当ストレスが溜まっている様子で、辞書を操る手は少々乱暴だ。

「そうか、じゃあ俺は図書館に行くわ。じゃあな」

イライラしている仙蔵にはあまり関わらない方が良いということはコイツと三年間関わってきた中で得た知恵だ。仙蔵は腑に落ちない顔をしていたが、相変わらず辞書で手遊びをしながら「じゃあな」と一言残して人混みに飲まれていった。

一息ついて、図書館へと足を進める。眠いし、これからどうすれば良いのか全くわからない。とりあえず静かな場所に行きたかった。
図書館は大学の敷地内の外れにあった。周りを大きな木々で囲まれていて、そこだけ都会の一角にあるということは忘れさせてしまう。木の下にはベンチが点在していて、天気の良い日にはここで昼食をとる学生たちで埋まっている。
まだお昼には早い時間のため、ベンチに腰かける人影は疎らだった。
その中の、周りより頭一つ飛びぬけている人影に目を奪われた。思わず「まさか」と声を漏らし自然と足がその人影に向かう。
その人物は木陰のベンチに深く腰掛け文庫本を読んでいた。その大きな手のせいで文庫本がより小さく見える。人違いかもしれないと思ったが、頬に走る大きな傷が確信を持たせた。

「長次…?」

そういえばまだ彼の名を呼んだことがなかった。まだそこまで仲良くなっていないし、呼び捨てはしない方が良かったかもしれない。しかし「長次さん」や「長次くん」も違和感がある。
突然名前を呼ばれたにも関わらず、長次は出会ったときのような、あのゆったりとしたペースで本から目を離し、特に驚いた様子もみせずに俺の目を見据えた。

「え、えっと…どうしてここにいるんだ?」

長次の纏う独特の雰囲気に飲まれそうになりながらもしどろもどろに問いかける。そこで、長次の声を聞いたことがないということに気づいた。

「私は、ここの学生だ」

見た目通りの低音が返ってきた。いや、見た目よりも少し低くてこもっている。

「そうだったのか。あ、ってことは…」

順序立てて考えなくともわかる話だ。伊作と俺は同じ大学に通っていたのだ。しかも同じ学年だ。同じ学年と言っても学部が違えば関わることはほとんどないので大学での伊作の記憶がないのも頷ける。しかし実は同じ大学だったという奇跡のような事実が一層俺の気持ちを駆り立てた。

「あの、隣座っていいか?」

長次が何も言わずに体をずらした。一人座るには十分すぎる空間ができて、肯定の意と受け取り、隣に腰かける。

「ひとつ聞いても良いか?伊作って大学ではどんな感じだったんだ?」
「…お前は、伊作に興味を持っている」

会話は噛み合うことなく、その低音が鼓膜を震わせ、背中に冷や汗が流れた。長次は恐らく、いや絶対に俺の気持ちを知っている。その「興味」がただの好奇心から来るものではないということもだ。(感覚的に「感じ取った」かもしれない)表情を窺ってみたが、いつもの無表情で静かに前を見つめていて、軽蔑やからかいの色は見られなかった。
一気に羞恥で顔が赤くなる。しかし同時に自分の気持ちを知る人間が現れたことにより、今まで一人で抱えていた荷物がじわじわと消えていく感覚がした。

「なあ、俺はどうしたらいいんだ、このまま黙ってた方がお互い幸せだと思うか?」

なに突然変なこと言ってるんだよ、と頭の片隅で声がした。「良い子ちゃんぶりやがって」と、その声は続ける。

「お前の好きなようにやれば良い」

長次がしおりを本に挟みながら空を仰ぎ見た。眠たそうにゆっくりと瞬きをする。ここだけ時間の流れが遅いような、ぬるま湯に浸かったような錯覚に陥って、なんとなく長次と伊作が仲良くなった理由がわかったような気がした。

「長次、俺は今、自分の気持ちがよくわからないんだ。好きだって言いたいけど、拒絶されたらどうすればいいんだ。それで伊作が傷つくかもしれない。やっぱり黙ってた方が良いと思うか?なあ、俺はどうすればいいんだ?」
「…お前の好きにしろ」

念を押すように長次が繰り返した。「好きにしろ」なんて、いい加減で投げやりかもしれない。しかしこのときの長次の「好きにしろ」はそれとはまた別のもので、確かに俺の心に響いた。

「伊作とお前の問題だ。お前たちで解決した方が良い。本心はわかっているんだろう」
「もしかしたら俺が、長次の大切な友達を傷つけてしまうかもしれないけど…」
「傷も、人を成長されるのに必要不可欠な体の一部だ」

最後の言葉で小さな決意が固まった。穏やかな長次の口から発せられたとは思えない、荒削りな言葉だ。もしかしたら傷つくことを正当化しているかもしれない。しかしそれは俺をベンチから立たせるには十分だった。

自分の鼓動がうるさい。なぜか両手の指先が痺れていて、思わず情けない笑みがこぼれた。



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