−雪が降る。 この尋常ではない凍てつくから風と、鼻につく雪の匂い。 「雪が降るよ」 声に出して振り返れば、くすんだ赤いはんてんを着た留三郎が、ぶすっとした様子で部屋の中央に縮こまっていた。「わかったから早く戸を閉めろ」とでも言いたげな彼の視線が痛くて、そろそろと戸をぴっちり閉める。途端に外界の音が遮断されて部屋が沈黙に支配された。遠くの方で聞こえていた下級生たちのはしゃぐ声や、風の音さえも別の次元に行ってしまったようだ。 「なんでわかるんだよ、雪が降るって」 「なんとなくそんな匂いがした」 留三郎がみるみる内に不可解な顔になり、僕は思わず小さな溜め息を漏らしてしまった。 「全く、こんな歳になったのに君には情緒というものはないのかい?」 「んだよそれ、寒いぞ伊作。冬の寒さもあるが、お前も寒い」 大袈裟に身震いする留三郎を思いきり睨みつけてやったが、当の本人はとくに気にする様子もなく先程煎れた茶を啜っている。 「もういいよ、もうちょっと話の通じるやつの所行ってくる」 わざと大袈裟な音をたてて戸を開く。部屋に一気に北風が入り込んで、鼻が冷気にやられ、ツンと痛んだ。後ろから怒号が飛んできた気がするが、無視しておく。 「おい、どこ行くんだよ」 「言ったろ、もっと大人な話ができる話し相手を探すんだよ」 「花なんか持ってか」 留三郎の言葉に、微かに肩が揺れてしまった。懐に隠し持っていた菊の花の質感がひんやりと僕の胸辺りを侵して行く。留三郎には見つからないようにしていたのに、こういうときに限って鼻が利くらしい。彼は昔からそんな男だった。 「墓参りでも行くのかよ」 「まあ、そんなもんかな」 留三郎の瞳は真っ直ぐこちらを射抜いていて、嘘が通じないことを悟った僕はあっさりと白状するしかなかった。 その「忍者してる」ような力の篭った瞳と、彼の着ている、押し入れの奥深くから取り出したようなくたびれた赤いはんてんが対称的で、思わず笑みを浮かべてしまう。 「なに笑ってんだ」 「なんでもないよ、じゃあ行ってくる」 氷水のような外気に体が無意識に震える。後ろから「おい、伊作」と呼び止められたがかまわず駆け出して学園の塀を飛び越えた。追ってくる足音はない。留三郎には悪いけど、こればかりは一人で決着をつけたかったのだ。 あれは、今日より風が強く、寒い日のことだった。 保健室に貯蔵していた薬草が少なくなり、裏山の川のほとりで薬草採集していたときのこと。 貴重な薬草を見つけ、今日の自分は幸運だと意気揚々と採集していたら、木々がざわめいた。 木々たちは流れくる異変を察知したのだろうか。とにかく枝葉の擦れるざわざわとした音がうるさくて、思わず手を止めて空を仰いだのだ。 同時に、上流から何か流れてくるのが視界に入った。 水を吸った布の塊が遠くから見て取れたので誰かが川に荷物を落としてしまったのだろうか、と近づいてみる。 段々とこちらの方へ流れてくる物体に髪の毛が生えていたこと、塊は二つあったことに気づいたのは、僕の目の前に流れついたときだった。 濁った瞳と、目が合った。 一瞬の出来事だった。喉がグッと締まって、声も出せずに尻餅をついた間に、その二つの塊は下流へと緩やかに流れていった。 若い男女であった。 男の方は街でよく見かけるようなごく普通の身なりをしていたが、女の方は赤を基調とした高そうな着物を見に纏っていた。恐らくは遊女だろう。息絶えていることは見て明らかであったが、双方の手は固く握り合っていた。 呆然とした頭の中で、「心中」という二文字が浮かび上がる。 二人は身分という壁に結ばれることを阻まれこのような愚かな選択をしてしまったのだろう。 一体どのような思いだったのだろうか。 二人が結ばれることを許してくれないこの世に恨み言を言いながら身を投じたのだろうか。それとも来世では結ばれようと誓い希望を持って飛び込んだ? どちらの理由であれ僕には理解できなかった。 結ばれないとしても、一緒に死ぬ理由はどこにあるんだ。二人で逃げればいいんだ。追っ手がきてもずっと走って、追いつかれて殺されたとしても。最後まで結ばれることを諦めないで死にたい。 それに、僕は不運だから留三郎と一緒に入水してもどちらかが死んでどちらかが死にきれず助かるのがオチだろう。きっと留三郎が死んで、僕が生き延びる。そんな感じがする。 いつの間にかあの日の川辺に辿り着いていた。懐にしまっておいた菊の花は少し萎びてしまっている。そして、僕の体温が移って生暖かい。 「う、わっ」 花を川に流してやろうと身を乗り出すと、足元を支えていた石がぐらつき、そのままバランスを崩して川に倒れ込んでしまった。咄嗟に体制を持ち直したお陰で、ばしゃんと音をたてて川の中に腕を突っ込んだだけで済んだが、「冷たい」と言うより「痛い」、針が刺さったような川の温度に腕の皮膚が悲鳴を上げる。 こんな身を切るような冷たい水に飛び込んだのか、とまたあの二人の心情に気を取られてしまう。 あの日目にした水の中から虚空を見つめる二人の瞳が頭から離れなくて、思わず首を振った。 「おい、大丈夫かよ」 川に手をついたまま動けないでいる僕の首根っこを温かくて乾燥した手が掴み、そのまま僕の体を持ち上げた。 やっぱりついてきたんだ 口からこぼれた僕の小さな嫌味は留三郎の耳に入る前に冬の空へと消えて行く。 僕の両腕は真っ赤で風が当たって余計に冷たい。それを自分の装束の裾で拭きながら留三郎はどんよりとした空を見上げた。 「伊作、雪だ」 たんぽぽの綿毛のような、ふわりとした雪が留三郎の肩に付きじわりと消えていった。彼と同じように空を見上げると、たくさんの雪たちがゆっくりこちらに降りてきている。 軽い雪だなと呟く留三郎の手は尚も僕の腕を拭いて忙しなく動いていた。力が強すぎて痛い、けれど暖かい。 何か内から込み上げてきて、視界が歪んだのを感じ、「だから一人で来たかったのに」と漏らすと、留三郎がバツの悪そうな顔をして微笑んだ。 110202 |