駅から徒歩五分、ベランダは南向き、小奇麗で小さな二階建てアパートの角部屋、1DKで風呂とトイレは別々についている。
バイトの帰り道、不動産の前でとても魅力的な物件を発見した。でもまあこんな好条件だったらそれなりの値段はするんだろうな。と思ってすぐ視線を逸らそうとしたけれど、一瞬その物件の家賃が目に飛び込んできて、すぐにまた視線を戻した。

「え・・・?安すぎねえか?コレ・・・?」

今思えば、これは運命だったのかもしれない。まあ、その時の俺は小さい頃から夢見ていた悠々自適な一人暮らし生活をフルスピードで妄想していたからこれから起こる、「色々な出来事」については未だ全く予想していなかったけれど。
決めたら即行動!というような性分ではないが、その時の俺はテンションが振りきれていて、すぐに不動産の戸を叩いた。中からは血色の良い中年男性が出てきて、俺はそのままのテンションで、窓に貼られているチラシを指差した。

「あの、この物件借りたいんですけど」

中年男性は「中川」といった。俺が部屋を借りたいと伝えたらすぐに店の中に入れてくれて、熱いお茶を出してくれた。

「いやあ、この物件は中々貰い手が決まらなくてねえ」
「こんなに安くて便利そうなのに、どうしてですか?」

もしや過去に自殺とか一家心中とか、色々あったのだろうか。心霊の類は信じていないが、何かそれを彷彿とさせるような痕が残っているのだとしたら、さすがに考え直さなければならない。考えるしぐさをした俺を見て、中川さんは慌てたように身を乗り出した。

「いや、この物件自体は何も悪い所はないよ。ただ、隣の部屋におかしな科学者がいてねえ・・・いや、でも年中引籠ってるみたいだから気にしないでいいよ」
「・・・はあ」

「おかしな科学者」という単語が妙に頭に引っかかった。まあ、隣に不良が住んでいて夜眠れないだとかだったらそれこそ考え直していただろうから引籠りの科学者なんて関わらなければ良い話しだ。
俺はその日のうちに契約書にサインをした。親ももうそろそろ独り立ちを考えろととやかくうるさくなってきたから良い機会だろう。
中川さんに笑顔で見送られて不動産を出た時には、辺りは既に闇に包まれていた。長居したつもりはなかったのにな、と思いつつも足取りは軽い。俺は、最低限必要な家具を頭の中でリストアップしながら帰路についた。



引っ越し当日は、清々しい快晴だった。空が広く見えて、天に向かって大きく伸びをしたくなる。荷物は業者さんが全部運んでくれていて、俺の新しい部屋にはダンボールがそこかしこに積まれていた。

ダンボールだらけの部屋を見渡し、とうとう今日から一人暮らしか。と少しずつ実感が沸き上がってくる。
期待と同時に小さな不安も抱えているが、当面はちゃんと人間生活を送ることができるだろう。
料理も得意だし、洗濯もたまに手伝ったことがある。

少し小腹が空いて、とりあえず何か食べてからダンボールたちを片付けようと、近くのコンビニに行くことにした。靴を履いている途中、小さめな袋が玄関に置いてあってその中を覗きこむと、中にはドラ焼きが入っていた。

「やべっ」

このドラ焼きは「これ、引っ越しを手伝ってくれた業者さんに渡してね」と、母が俺に持たせたものだった。
渡し忘れてしまったのだ。急いで玄関の扉を開け外を見回しても、業者のトラックの姿はどこにもなかった。

(まあいいや。食べよ)

心の奥底ではわざわざコンビニまで行くことに面倒くさいと思っていたから丁度いいかもしれない。くるりと振り返って部屋に戻ろうとした。


しかし、


意志に反して俺の足は言うことをきかず、一歩も動けなかった。
ただ、隣の部屋の換気扇からありえない色の煙が出てくるのに目が離せないでいた。

(紫色の煙・・・?)

B級ファンタジー映画でよく見る、言うなれば「ショッキングパープル」色をした煙が、隣の換気扇からもくもくと立ち上っているのだ。
「おかしな科学者」不動産で聞いた、中川さんの声が脳内で再生される。
こんなおかしな煙を出してる住人が隣に住んでるなんて、普通は気味悪がって近づきたくないよなあ、と冷静にこの部屋が格安であったことを思い出した。
できれば関わりたくない。けれど隣の部屋に越してきたのに挨拶のひとつもないなんて失礼ではないだろうか。少し良心が痛む。
初めだけ挨拶して、それで終わりでいいじゃないか。ドラ焼きをあげたら、少しは気を良くしてくれるかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、恐る恐るインターホンを押してみる。人差し指の間接が痛くなる程かなりの手応えがあったところを見ると、随分長い間訪問者が訪れていないようだ。

ピンーポーンと気の抜けるような音が響いた。ひどく間抜けな音だ。ひょっとしてどこか壊れているのだろうか。はたまたこのアパートのインターホンは全部こんな音なのだろうか。
そんな邪推をしている間にも換気扇からは絶え間なく煙が上がっていて、その色は紫から青に変わっていた。思わず目をむいて凝視する。ここに住んでいるのは科学者ではなくて魔法使いなのではないだろうか。思わず非現実的なことが頭をよぎった俺には、ドアの隙間からこちらを窺う双眸に気付くわけがなく、「なんですか」という男の声に飛び跳ねて驚いてしまった。

「あ、驚かすつもりはなかったんですけど」

ドアからひょこりと体半分を覗かせる男の顔は、とても若々しく俺が想像していた「科学者」とは随分とかけ離れていた。「おかしな科学者」と聞いてまず厚ぼったい瞼と脂ぎってハゲかかった40代の男を想像していたのだが正反対だ。
きっと俺と同い年か1個下くらいの青年で、黒目が目立つ、パッチリとした瞳が印象的だった。全体的に端正な顔立ちである。青年は、俺が右手にぶらさげている袋を興味深そうに見遣り、クンクンと鼻を鳴らせた。

「そういや2日食事してないや」

あっけらかんとした青年の声に、ふと我に返った俺は物欲しそうな彼の手元に袋を差し出した。

「隣に引っ越してきた食満っていいます。よろしくお願いします。これ食べてください」
「うわあ、ありがとうございます。僕、善法寺伊作っていいます。いただきます」

袋を受け取り、嬉しそうに中のドラ焼きを覗きこむ善法寺伊作をぼんやりと眺めながら、俺はホッとため息をついた。年も近そうだし、性格も今見る限り破綻してなさそうだし、この隣人とはうまくやっていけるかもしれない。


しかし1時間後、俺は彼に少しでも気を許したことを後悔するハメになる。


→2

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