酔桜なだらかに春
何年か前とは比べ物にならないほど大きくなった手が、流れていた黒髪を掬う。そしてさらさらと涼やかな音を立ててそれを落とすと、また一房、彼は髪をその手の平に乗せた。
目の前に座る我が主は、この一連の動作をずっと繰り返している。飽きることなく、無言で。
夜半に突然呼ばれて、彼の目の前に座れと言われて。何か用ですかと聞いたら、彼は立てた膝に肘を乗せて、こちらをじっと見つめ始めた。それが何秒か続いたかと思うと、綺麗な長い指が伸びてきて、目の横の黒髪を掬ってきた。
後はさっきの動作の繰り返し。なぜ呼ばれたのかも、なぜこんなことをされているのかも分からないまま、正座するしかない。
もう顔を上げることすらままならなかった。すぐそばに彼の顔があって、その強い視線は全てこちらに向けられているのだから。
ただ、いつまでもこのままではいられない。側近なのだから、はっきり言わなければ。そうやって心の中で決心する。
「あ、あの、若」
意気込んで顔を上げた瞬間、後悔した。
思っていたより近かった紅の眼光が、強く真っ直ぐに視界へ飛び込んでくる。頬に朱が上るのを自覚しながら、それでも目は逸らさなかった。あるいはもう、視線すら動かせなかったのかもしれないけれど。
「──髪、綺麗だよな」
彼が、喋ったのだと。
理解するのに、どれほどかかっただろう。
馬鹿みたいに丸く開いている金色の目が、彼の真紅に映っていた。あぁ母と同じだと思った金は、自分のものだ。
「わ、か、なにを」
溶けてしまいそうに、頬が熱い。
彼が口の端を上げて薄く笑うのを、ぎゅっと瞼を閉じて見ないようにした。けれど瞼の裏でも色々なものがぐるぐるしていて、ことさら瞼に力を入れなければならなかった。
ふと彼が吹き出す気配がして。
髪は掬われたが落とされず、緩く引かれた。
口付けられたのかもしれないと思うと死んでしまいそうで、けれどそれはあまりに幸せ過ぎると、冷静な頭が言う。だから、これはただの気まぐれな悪戯だと、そう思うことにした。