まろぶように、想い初め




 今日は空気が冷たく、とても心地よい日だった。皆が入った後の風呂の湯は丁度よい具合に冷えていて、けれど気温が低いせいか、湯気が意外にも多く立っていた。
 そのせいだ、と言えばそうなる。
 自分以外の人影に気づかなかったこと。ましてやそれが、夜遊びから帰った誰かさんであったこと。
 それらに気づいたのが、己の裸身を晒してしまってからだったこと。

 無意識に繰り出した張り手は正確に主の頬を捉え、夜中の風呂場に甲高い音を響かせた。




 そっぽを向いてしまった主の頬に、赤い腫れ。痛々しいそれは、罪悪感故か直視出来ないほどに酷かった。
 そうっと主の顔をうかがう。こちらを向いていないから関係無いのだけれど、それでも堂々と出来ない理由があった。
 怒っていますかと聞こうとして、すぐにそれを飲み込んだ。怒っていない筈が無いではないか。風呂にいきなり入って来た乱入者に悲鳴付きでひっぱたかれて、怒らない方がおかしい。
 不可抗力だ、と思わないこともない。一応女なのだから、裸を見られれば慌てて冷静な判断は出来なくなる。かといって、主の方が先に居たという事実がある限り、それは言い訳にしかならないが。

「……申し訳ありません」

 膝の上で握る手を見つめながら、情けない気持ちでいっぱいになる。こんなことで、側近は勤まるのか。いつもいつも側近を主張しているけれど、そんな資格はあるのか。
 でもそんな資格が無かろうと、彼の傍に居たいと思う。母性故ではないその欲は年を重ねるにつれ大きくなり、存在を膨れ上がらせていく。
 止めることは出来ないと、どこかで知っていた。だからこそ――怖い。

「……そう落ち込むな」

 手首を掬われて、それを追うように顔を上げる。その整った指が、低い声が、驚く程に優しくて、肩から力が抜けていく。
 先ほどは主の顔に腫れを作った手の平が、今度はそれを冷やす為にふわりと添えられる。その体温は熱く、熱く。

「――冷てぇな」

 笑んだ唇から漏れた息が手首を掠め、体温を上昇させた。手の平が頬の熱を吸い取り、自分の顔まで移す。短い悲鳴が自分のものだとは信じられなくて、反射的に手を引っ込めようとした。けれど、彼の手が解放してくれない。

「氷をお持ちしますから……っ」
「これでいい」

 深く冷たさを感じるように擦り寄せる姿は普段よりずっと妖艶で、頭を無茶苦茶に掻き乱される。お戯れは止めて下さいと、少し前なら言えたのに。熱い何かが邪魔をして、喉がつっかえてしまう。

 手首に、湿った暖かさが這った。ぞわりと悪寒でない何かが背筋を駆け抜けていく。目を見張って正体を探すと、彼の口元で赤い舌がちろりと覗いた。
 もう一度、それが手の平を舐める。今度は遠慮や容赦を捨てたのか、背を走る何かが尋常でないほど勢いを増した。
 悪戯が成功したような笑みを浮かべてこちらに視線を送ってくる主に、涙目で威力半減の睨みを返す。

 距離を詰めてくる身体を押し返しながら、もう片方の頬をまた叩いてしまうかもしれないわと、そんなことを考えていた。



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