椿が落つる赤よ紅
「――肌寒い夜じゃ。のう?」
なら帰りな。
そう呟くように言ったら、肩に爪を立てられた。
敵か味方か、なんていう曖昧過ぎる境界線は、熱し過ぎた砂糖のように甘く鬱陶しい。何時でも味方は敵になり得る。逆もまた然り。ならばそんなものは越えてしまえ。甘さなど踏みつけて、熱だけが血に巡れば良いのだ。
投げ出した脚の上に、柔らかな肢体。男を煽るような肌触りと弾力は、きっとこの世の中で極上と言われるものなのだろう。
ただその白磁は見た目通りに冷たく、しかもすらりと伸びた脚は黒く薄い化学繊維に包まれて、それを拝む事は到底出来そうになかった。それはどこか、今の状態に酷似している。
「……つまらぬ」
首筋に絡み付いた黒が、湿り気を帯びた息を吐き出した。己に垂れ掛かるように、黒糸が広がっている。吐き出された言葉は当然だった。さっきからこちらは何もしていない。互いの着衣に乱れは無く、熱はまだ、内に止めたまま。
「てめぇから誘ったんだろうが」
だからてめぇが動け。そう含ませた言葉を受け取ったのか、胸上の重みがむくりと上体を起こす。面には壮絶なまでに美しい笑みを浮かべて。
感情を何も映さない黒耀が降りてきて、眼球が触れない代わりに唇が重なった。眼はどちらも閉じようとはしない。ただ相手を挑発するように、ゆっくりと瞬きをする。すぐ前の光沢のある漆黒の表面だけに、己の姿が映っていた。
こいつは口の中にまで、尾を持っている。口内を好き勝手に暴れまわるものは、記憶に新しいあのしなやかな狐尾そのもの。――ふいに笑いが込み上げてきた。
何もかもがどうでも良い。人間と妖怪と、獣。なにが違う。どこが違う。本能のままに生きろ。欲望を抑える理由がどこにある。
唇の端に、痛み。
噛みつかれたのだと気づいたのは、鉄と錆の味が舌に擦り付けられてからだった。
「――おもしれぇ」
細くか弱いだけの肩は、いとも簡単に押し返す事が出来た。その身体も軽すぎて、跳ねるように己の上から落としてしまう。しかし、心配など無駄でしかない。覆い被されば、微かに吊り上がった唇の端が見える。
くすくすと鳴る喉の近く、骨が浮いた場所に唇を落とす。息が詰まるような音を聴いて顔を上げれば、そこは赤く鬱血していた。笑みが零れるのが自分でも分かる。
例えば世界が、モノクロになったとして。目の前のこいつは何も変わらないだろう。黒と黒と黒と黒と白で作られているのだから。白や黒はたびたび善と悪に例えられた。ならばこいつは沢山の悪と少しの善で出来ているのか。それは――嘘だろう。この白は善などではなく、きっと存在の証明だ。ブラックホールが光を利用したのだろう。姿を視認させるために。そんな、柄にもないことを考える。
ただ、赤が欲しい。運命の色か情熱の色か。あるいは、禁断か。
何にせよ、この下品な色が今の関係には似合う。頭のおかしい二人に、白黒よりずっと。それはこの白い肌に散る赤が証明してくれる。
舌を這わせると、聞いたことの無い艶を含んだ音を聴いた。そうだった、こいつの肉声はとても良い。聞き惚れる。
行為が最低である事を認めれば、最高の気分だった。紅潮した頬を背けるように白い手が上がるのを、掴んで床に押しつける。
「良い眺めだ、なぁ」
理性なんてものはかなぐり捨てろ。欲望に従った姿は、こんなにも美しい。
力の入らないであろう脚に触れるとざらりとした感触。なめらかなそれではない。
「……邪魔で仕方ねぇ」
「破けばよかろう?」
笑む熟れた唇に噛みつく。ここにも、赤が一つあった。
甘さなどない。愛などいらない。
そんなもの無くとも、赤い熱さえあれば。
黒髪に触れた瞬間、別の誰かが脳裏をよぎった気がしたが、すぐ快楽に流されていった。