あくまで果てなき純情
夕焼けは嫌い。
肩に食い込んでいた鞄の紐を掴んで抱え直すと、シャツがじっとりと汗をかいていた。不快だった。もう蝉も死んでしまって、冷ややかな風が夏の影を消している頃だというのに。冷たい湿気に身を震わせながら、曲がり角を睨み付ける。
大丈夫。何も出てこない。
深呼吸をして踏み出す足のリズムはいつもより随分速い。まるで今の心拍数と示し合わせているようだ。
夕焼けは嫌い。暗くなり始めたせいで出来る、陰影のコントラストとか。手を繋ぐ親子の後ろ姿はどこか不気味で、風情なんて欠片も感じられなかった。自転車は後ろからは来るのに、前からは来ない。車の運転手の顔は見えなくて、楽しそうに笑う子供の声はずっと遠くに聞こえた。
この日常から切り離されてしまったような感覚は、前にも感じたことがある。
『――カナちゃん、みいつけた』
「……嫌」
こわい。ただそれだけだった。後ろを振り返れば何かがいるような気がした。車の運転席を覗けば無人のような気がした。前から来る自転車に乗る人は顔が無いような気がした。この世にいるまとも人間は自分だけのような気がしてならなかった。
家に帰ろう。お母さんの顔を見れば安心する。出来るだけ早く、早く。小走りになった歩調と心臓を治めることすら忘れて、見知った道のりの残りを祈るように概算していた。
だからかもしれない。曲がり角にいた誰かに思いきりぶつかったのに、悲鳴を上げることも、謝ることも出来なかった。
「っと……カナちゃん、かい?」
「あなたはっ……」
低い声に、和服。それから連想されるべき人なんて、一人しかいない。
名前も知らない命の恩人は、緋にも金にも見える瞳を少しだけ大きくして、こちらを見下ろしていた。息が詰まるような偶然。滅多にない機会。伝える言葉や聞きたい事がたくさんある――のだけれど。
「……声、聞かせてくれませんか」
「ん?」
「なんでもいいから、話を」
それだけでいい。本当に、声だけで。
驚くほど安堵したのだ。彼が自分の名前を呼んでくれた瞬間。不思議を越えた当然のように、その事実は無音で胸に落ちた。
それを感じたのかは、分からないけれど。彼は少しだけ目を細めて、それから静かに、指に触れてきた。びくりとしてしまった反応に彼は微かだけれど笑み、手を繋いだまま歩き出す。
「家に帰るまで、な」
あぁ今、世界で一番幸せなのは、わたしかもしれない。
のぼせてしまった頭で、そんなことを考えた。